書評・エッセイ

2020年10月号掲載

旅心

古井由吉『われもまた天に』

川上弘美

対象書籍名:『われもまた天に』
対象著者:古井由吉
対象書籍ISBN:978-4-10-319212-1

 入院と退院、そしてその間の日々について書いた四篇の短篇小説をおさめた本書を読んで、なぜこのように自分の中の凝ったものがほぐれてゆく心地となるのだろうと、不思議に思う。病院の高階から眺める語り手の住まい、手術後の体のありさま、夜の病院の廊下に停る車椅子に黙然と座る老人、気温の上がらない春、秋の大きな台風、ふたたびの入院、みたびの入院、思いだす戦争のこと、はるかな昔のこと、わずかな昔のこと、亡くなっていった家族のこと。こうして本書に書かれていることを連ねてゆくと、日に向かうように輝きわたることは何も書かれていないのに、いつまでもこの本の文章を読んでいたくなる。心が騒いでいたとしたなら、柔らかくなでられているように、静まってゆく。きれいに清められた庭をじっと座って眺めている時のように、身から澱がはがれ落ちてゆく。
 冒頭の短篇「雛の春」の中で、「ねざめに遠き小車の音」という宗祇の付句を寝覚め時に思い浮かべる語り手は、「一句ごとに移り行くのが連歌の心であるそうだから」と続ける。連歌、あるいは芭蕉が完成させた俳諧の連歌は、発句である最初の五七五への付句である脇句七七、さらにその付句である第三の五七五、またさらなる付句である四句目の七七と、連衆たちが次々に言葉を連ねてまいてゆくものであるが、そこには一つの決まりがある。発句の次の脇句は、発句からの連想を保ちながらも、発句からは少しだけ離れた世界を表現しなければならない。次の付句である第三は、脇句からの連想を保ちながらまた脇句から少し離れる。その時、第三はすでに、発句からはすっかり離れたところへ行っている。その後のいくつもの付句も、同じだ。いつまでも同じ景色の中にとどまらず、先へ先へと、あるいは脇道へ、またあるいはのぼりくだり、しつづけながら、連歌はまかれてゆくのである。
 古井由吉の小説も連歌のゆきかたと同様、一つの文章のかたまりが二番目の文章のかたまりを呼び、二番目の文章のかたまりが三番目を呼び、それらは互いにゆるくつながりあっているのに、三番目の文章のかたまりはすでに最初の文章からは、いつの間にか離れたところに読者を連れてゆく。
 連歌で大切なのは、つながりながら、変化しつづけること。以前、連歌の専門家に教わったことがある。では、変化しつづける、そのさらに底にあるのは何なのでしょうと問うと、生きること自体でしょうか、との答えがきた。
 うねるように、寄せては引くように、生の中にふくまれている死の確かな手ざわりをその文章で表現してきた古井由吉だが、なるほど、宗祇や芭蕉が連衆と共にまいてきた連歌や俳諧の連歌を、古井由吉は一人でまき続けてきたのかもしれないと、この短篇集を読んで、はじめて腑に落ちた。最初の一行からはるか遠く離れたところまで流されてゆくのに、切れ目や裂け目など一つもない、にぶい光沢を保ったまま、どこまでも進んでゆき、その深奥には「生」とは何か、という古井由吉自身の問いと思考が太く滔々と流れているのである。
 遺作である本書の最後の短篇は、未完成である。なのに読後、これでいい、いや、これこそがいいと、身にしみいる。それはもしかすると、たとえば芭蕉と連衆たちのまいた俳諧の連歌が、時には途中で未完のまま終わってしまうことがあっても、まいた、というそのことだけで十分であることと同じなのかもしれない。まかれたというそのことだけで、書かれたというそのことだけで、つづまりをつける必要など何もない全きものとなってあるのだ。
 古井氏と酒席を共にしたことが、一度だけある。二十四年前、銀座のバー「ザボン」での機会である。少しだけ、まいてみますか、と、その時、同席の丸谷才一氏がわたしに発句を所望した。「夜桜や沼に沈める千の虫」と、丸谷氏のさしだしたコースターの裏に書くと、「團子の餡が極楽の春」と丸谷氏が同じコースターに脇を付け、するとすぐさま、「旅心蛇の縁にみちびかれ」と、ウイスキーグラスを置いてあった目の前のコースターを裏返しにして、古井氏はしたためたのだった。柔らかな酔眼をすえるようにして書いた古井氏のコースターの字には独特の癖があり、一筋には読み解くことができなかった。ウイスキーのしみの飛んだコースター二枚を、今も宝として大切に持っている。古井由吉は、なるほど、たしかに一筋には読み解くことのできない「生」という旅を描く、旅心の人でもあった。

 (かわかみ・ひろみ 作家)

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