書評・エッセイ

2020年10月号掲載

今も日本中で起こっている私たち自身の物語

はらだみずき『やがて訪れる春のために』

樋口直美

対象書籍名:『やがて訪れる春のために』
対象著者:はらだみずき
対象書籍ISBN:978-4-10-335552-6

 植物には、不思議な能力がある。脳の疲れを溶かし、痛みを鎮める。へなへなと曲がった心をそっと伸ばす。いつでも、いつまででも一緒に居て、無言で力を手渡してくれる植物たち。彼らのいない世界で生き抜けるとは思えない。
 そんな植物たちと語り合える庭は、当たり前のように存在しながら、実は、世界のどこにもない特別な場所だ。
 この小説の主な舞台は、庭。荒れ果てた庭が、主人公の若い女性、真芽(まめ)によって息を吹き返していく。庭には野鳥のようにさまざまな人が訪れる。傷を抱えた真芽は、その中で本来の生命力を取り戻していく。
 庭の持ち主は真芽の祖母、ハル。かつて一緒に暮らしていた真芽に花の名前を教え、料理を教えてくれた人だ。しかし真芽たちは、この家から離れた。ハルは夫を喪い一人暮らしをしていたが、転倒→大腿骨骨折→入院という、高齢者に多い不運に見舞われる。
 疎遠だった家族は、その時初めてハルがレビー小体型認知症と診断され、治療を受けていたことを知るのだった。
 レビー小体型認知症では、約7割の人に幻視が現れる。一人暮らしの家に「男が来る。子どもが来る」というハルの不可解な言葉は幻視なのだと、ネットで知識を得た真芽は思う。
 真芽がハルの側に立って考え、理解しようとする一方、真芽の両親は、「認知症なら一人暮らしは無理」と即座に施設へ入れることを考える。
 ハルは、レビー小体型認知症の特徴で、しっかりしているときはしっかりしている。(そのため家族も病気に気づかなかった。)自宅に帰りたいが、「迷惑をかけたくない」と語り、気力を失ってしまう......。そう、これは、今日も日本中で起こっている私たち自身の話だ。
 そんなハルのために真芽は、祖母の愛した庭を蘇らせ、見せたいと願う。そして人の縁に助けられながら、慣れない庭仕事を始めるのだ。
 面白いのは、病気の症状だと思い込んでいた様々なものごとが、実はそうではなかったこと。孤独に暮らしていたはずのハルには、いろいろな人たちとつながりがあり、ささやかではあっても豊かな彩りのある時間を生きていたことが徐々にわかってくる。
 真芽がハルを通して一つ、また一つと掴んでいく認知症への理解は深い。レビー小体病当事者の私には、これが真実に見える。
「認知症の親の記憶の方が正しかったんです」という話を、私は介護家族の方から度々聞いてきた。記憶障害が強くないレビー小体型認知症では特にそうだ。不安や孤立感から混乱することがあっても、決して頭のおかしな人でも無能な人でもない。そんなことも、この小説は淡々と伝えてくれている。そのことが新鮮で、とてもうれしい。
 以前、大学で学生さんたちとお話をしたときに聞いた言葉を思い出す。
「『おばあちゃんは認知症でもう何もわからないのよ』って、母は言うんです。でも私と話すとき、祖母は、今まで通りの祖母なんです。いろいろ覚えられないだけで、祖母は優しい祖母のままなんです」
「何もわからない人」として扱われる悲しみと不安に抗うためのやむにやまれぬ防衛を、人は「認知症の異常行動」と呼ぶ。ハルにもそんな行動が現れる。「異常者」のレッテルは、さらにその人を追い詰める。
 そんな祖母の気持ちを思う真芽に、ハルは印象的な言葉を告げる。「認知症の人がそんなことを言うか」と認知症を知らない人は思うかもしれない。言うのだ。澄んだ目で、その人を理解したいと本気で願う相手にだけは。
 自分に引き寄せて、認知症のことばかり書いたが、これは、若い女性の再生を幹とした物語だ。そこに多くの植物が登場し、人と人との触れ合いが描かれる。
 コロナ禍の今、そのぬくもりに心底ほっとする自分を感じる。人の集まるこの庭に私も身を置きたいと妄想する。もう半年間、会いたい人とも会えない。この状況がいつ終わるかもわからない。そんな生活に疲れていることを自覚する。
 真芽も周囲の人たちも、決して恵まれた環境の中にはいない。今の若い人たちは、本当に厳しい時代を生き抜いているといつも思う。それでも前に進もうと真芽は心に決める。ささやかな決意。でも爽やかだ。そんな姿に多くの人が共感できるだろう。

 (ひぐち・なおみ 文筆家)

最新の書評・エッセイ

ページの先頭へ