書評

2020年10月号掲載

過剰なことの価値

石井遊佳『象牛』

斎藤美奈子

対象書籍名:『象牛』
対象著者:石井遊佳
対象書籍ISBN:978-4-10-351532-6

 百年に一度の大洪水に襲われたアダイヤール川。デビュー作で芥川賞を射止めた『百年泥』は、南インドのチェンナイを舞台にした、けったいな小説だった。
 でもまだ『百年泥』はおとなしかったのだ。石井遊佳の二冊目の本『象牛』はもっと濃厚で手強いぞ。
 収録された二編はどちらも川と川べりの物語である。もちろん清流などであるはずはなく、この世とあの世の森羅万象を煮込んでスープにしたような都市の川である。
 表題作の舞台は北インドのヴァーラーナシー(ベナレス)だ。ヒンズー教最大の聖地とされる宗教都市。ガンジス川で沐浴をする人々の姿で有名な、あの町である。そこに「私」はひとりで来た。そこは彼女の担当教官・片桐徹准教授のかつての留学先で、どうやら彼女と片桐はいわゆる「不適切な関係」にあるらしい。
 とはいえテキストは、ハナから読者を煙に巻く。
〈象牛は、通称である。象でも牛でもない。合いの子でもない。象のような鼻に、牛のような体つきと間のびした顔という、とりわけ目立つ特徴に対して名を与えただけと思われる〉。これが書きだし。〈背後から忍び寄るしなやかな足取りは猫そのものだし、鍵穴じみた眼は山羊そっくり、四肢はピッパラ樹の切り株、尻尾は竜王(シェーシャ)さながらだ〉
 そんな動物っているの? そうなのよ、うっかり騙されるとこだったわよ。ピッパラ樹(ブッダがさとりを開いた菩提樹のことだそうだ)とか、シェーシャ(インド神話に登場する蛇神らしい)とか、単語のひとつひとつが難解なうえに、この片桐准教授ってのがまたインド学版の文学部唯野教授((c)筒井康隆)みたいな曲者で、怪しげな論文やエッセイを量産しているのである。
〈二人きりで会わなくなって一か月以上たつ。日本での日常を離れ、異国で会えたら、初めて出会ったときの二人にもどれるかもしれない〉なんて乙女チックな幻想に浸りながら、このおっさんに心酔している「私」が、ヴァーラーナシーの町をほっつき歩き、ときには彼の論文(もっともらしい!)を引用し、ときには母と自分の辛い過去(こっちは悲惨!)を回想する。
 しかも象牛だけで飽き足らず、「リンガ茸」(リンガとは女性器から男性器が生えたような形の造形物)なんて妙な生物まで出てくるわけよ。〈〈象牛とリンガ茸のように〉、これは同時存在が難しいことの喩えです〉という半可通の言葉に対して片桐いわく〈どちらも実在しますよもちろん、ヴァーラーナシーのガンジス川岸にうようよいる〉。
 ほんまかいなー、と言ってるうちに、あれよあれよと読者は物語に巻きこまれ、「私」は最後に気付くのだ。〈インドに来るはるか以前から私の行く先々はいたるところ象牛だらけだった〉のだと。
 同時収録の「星曝し」は、ざっくりいえば作者の出身地である枚方市(大阪府)のご当地文学ですね。といっても、普通のご当地文学のわけがない。枚方じゃなく比攞哿駄やからね。関西の人に有名な「ひらパー」こと「ひらかたパーク」も、ここじゃ比攞哿駄パークである。
 枚方はもっか七夕売り出し中なんだけど、石井版の七夕は〈集団夜遁げにしかみえない〉代物。ありったけの所帯道具をリヤカーや風呂敷包みで淀川の川原に運びだし、ござの上に並べて一晩中星にさらす。これが虫干しならぬ「星曝し」の行事。そして「私」はこの川原で時計修理人だった父をはじめ大勢の死者と出会うのだ。
 石井遊佳が描く枚方ならぬ比攞哿駄はノスタルジックな情景にあふれていて「新境地」の感ありだけど、「象牛」も「星曝し」も主人公は過酷な少女時代をおくっている。父のDV、母の育児放棄、父母の離婚、摂食障害......。大がかりな舞台装置は案外、さわれば崩れ落ちそうな少女を支える装置なのかもしれない。
 虚実ないまぜになった世界に、ドキッとするほど現実的な情景が挟まる。それが石井遊佳の持ち味で、でも少しわかったぞ。世間じゃマジック・リアリズムとか言ってるけどさ、石井遊佳のなかには大阪のおばちゃんが住んでんのよ。ただのおばちゃんちゃうよ。学のあるおばちゃんや。だから暑苦しいしひつこいし、法螺話に迫力があんのよ。あっさり味が受ける時代だからこそ生きる過剰さの価値。当てられてください、ひつこさに。

 (さいとう・みなこ 文芸評論家)

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