書評
2020年11月号掲載
『湖の女たち』刊行記念特集
腐敗するこの国に放たれた救いの光
吉田修一『湖の女たち』
刑事と容疑者の間に生まれた異端の愛――これはミステリーか、それともポルノか。
吉田修一の集大成ともいえる犯罪小説を、映画監督が読み解く。
対象書籍名:『湖の女たち』
対象著者:吉田修一
対象書籍ISBN:978-4-10-128759-1
この読後感をなんと伝えればいいのだろう。心落ち着かないざわざわした興奮。胸の奥が疼いている。漂う諦念と微かな望みと絶望。人が人であることと、人でなくなることへの欲求。人類の黙示録のようにも読める。ものすごい小説を吉田修一は書いた。
人間は愚かだ。自分の生きる場所を、真綿で首を絞めるようにゆっくりと壊していく。いや、腐らしていくと言ったほうがいいかもしれない。警察署もその取調室も戦時中の部隊も週刊誌の編集部も両親が敷地内に建てたアパートに住む数学教師の男の家も風の抜けない湖も、おそらくこの国も。そしてこの星も。著者はその一つ一つが腐っていく様を腐敗臭とともに描き出す。例えではない。匂いが鼻腔に充満するのだ。この小説は腐敗臭と共にある。
「人間だけやなくて、やっぱり組織にもトラウマってあんねんな。もう、どうにもならへんかった」と元刑事の河井(かわい)は言う。この諦念が腐敗臭と共に漂う。私たちが生きているところが腐っていく匂いだから、「クサイ!」と言っても仕方がない。自らが発生させた匂いなのだ。
もう一方で著者はインモラルな性を描く。腐敗した警察署の刑事の圭介(けいすけ)と琵琶湖の水を引く家に住む佳代(かよ)は次第に奇妙な引力を感じ、密会するようになる。佳代は祖母の昔話で天狗(てんぐ)が自分を連れ去ってくれることを夢想する。腐った俗世間から聖なる山へ連れ去って欲しいと思うのだ。圭介は佳代にとって天狗だった。
圭介の妻は妊娠していて物語の途中で出産する。圭介は不倫している。社会常識に照らせばひどい男だ。しかし自分の欲求を抑えられない。どこまでも落ちていく圭介と佳代のインモラルなセックスは道徳、やがては法律、命さえも超えていこうとする。この二人をどう捉えるか。決して道徳や常識を振りかざして読まないで欲しい。これは私たちを試す踏み絵のようなものなのだ。天狗の連れていく聖なる山は命の輝きのみが大事にされるのだ。
また伊佐美(いさみ)という圭介の同僚は腐敗の最たる者として描かれるが、彼でさえ、週刊誌記者の池田(いけだ)に自分が諦めた事件の真実を暴いて欲しいと願う。その池田は百歳の被害者の妻、松江(まつえ)と出会う。松江の部屋に飾られた花に見惚れる。戦時中、松江は腐敗した部隊に関わる夫のことを考えられない。だが夫との生活に愛を探し「こういう日がずっと続けばいい」と言う。さらに「どこまでも広がる氷の大地に、丹頂鶴の鳴き声だけが響いていた。大きな翼を広げた一羽が、ゆっくりと冬空に飛び立っていく。ただ、美しかった。世界はただ、美しかった」とある。こうして著者が描くのは人間という生物の持つ愛と生命の輝きと、人知の及ばない自然への憧憬と溶解とでも言ったらいいのか。人が人であることへの最後の砦のようなものに触れてくる。それは人間社会に深く絶望しているからだ。
だからその絶望を証明するかのように「この与党議員がある雑誌の対談で、子供を作らないLGBTの人たちを生産性のない人間と呼んだ」ことや津久井やまゆり園で起きた大量殺人を報じるニュースを引用し、「生産性のない人間は生きる価値がない」と書かれるのだ。拙作『タロウのバカ』という映画でも津久井やまゆり園を想起させるシーンが出てくるが、本当に危険なのは経済的に見ると、この言葉が正しさを装って見えることだ。この小説は圭介と佳代がそうであるように、生産性とは違う自分の存在を際立たせる行為を描く。そしてこの二人に望みを託している。人間という生物は経済的合理性だけでは生きていけないのだ。繰り返すが、私たちが生きる社会がどれだけ腐敗しているのかという現実をこの小説は私たちに突きつけてくる。正論を振りかざす自粛警察やネット上の誹謗中傷、異物を排除しようとする力、同調圧力。どれもこれも腐っている。と言っても自分も生きてる社会なのだ。苦しい。
そこで著者は救いの光を放つ。湖の夜明けを自然物のみで描くシーンだ。まさしく光が世界を包みこむ過程だ。人間が存在する前からあった自然。まるで人間の腐敗を浄化するようにある自然。私は本当に感動した。人が生きることの喜びさえ感じる。これは人間社会の全てを諦めざるを得ない状況にある私たちに、人間の想像は素晴らしいと表すための挑戦のように感じた。そして驚愕のラストは少女たちの不気味な歩みのように、今この時も腐敗が進んでいることを私たちに突きつけてくる。
私は未だ腐敗と命の輝きの間で疼いている。