書評・エッセイ

2020年11月号掲載

『湖の女たち』刊行記念特集

「生産性」を失った「上級国民」が殺された

中野信子

対象書籍名:『湖の女たち』
対象著者:吉田修一
対象書籍ISBN:978-4-10-462807-0

 吉田修一は、時代の陰にある者を嗅覚鋭く拾い上げ、そこに容赦なく光を当てるように描いていくのが巧みな作家である。まだ生々しい患部から血が流れているのを、冷たい視線でえぐるように描写していく。その筆致は時にサディスティックですらあり、強い嗜虐性と被虐性の混淆した世界に、読者は陶然とさせられてしまう。特に本作では、直接的に丹念に嗜虐と被虐の関係を描き出していくが、著者の本源的な部分にその歓びを感じたい何かが蠢いているような予感を覚える作品ともなっている。
 2019年4月19日、東京・池袋で死傷者11名を出す自動車事故が発生した。運転していたのは、当時87歳であった元通産省工業技術院長、飯塚幸三被告である。彼は、3歳の女児とその母親の2名の死者を出した死傷事故の加害者であったにもかかわらず、逮捕されることはなかった。
 さまざまな憶測が流れ、またTV等のメディアでも「元院長」などの呼称が使われて、「容疑者」とする報道が少なかったこと等から、彼は「上級国民」だから免責されているのに違いないと、ネットを中心に、彼に対して怒りを発する言説が盛り上がっていった。
 このころから、「上級国民」という言葉は巷間に流布していった。吉田修一はこういう微妙な時代の感情を掬い取る。果たして、本書にも、上級国民であっただろうと思しき人物が登場する。
 池袋の事故はただの事故ではない。自分たちは平均的な、普通の日常を送っている、と信じて、乏しい給料や劣悪な労働環境など、多くの不都合に耐えていたところに、国家の枠組みによって守られた、「上級」の存在がいるのかもしれない、と暗示するような出来事が起きてしまったのである。自分たちの忍耐や努力がすべて無に帰するような脱力感、真面目に生きる者は馬鹿を見るという絶望感、そして、被告に対して言いようのない嫌悪感と怒りを、覚えた人は多かったのではないかと思う。
 一方、これに先立つ2016年7月26日には、津久井やまゆり園で、入所者ら45人が殺傷される事件が起きた。植松聖死刑囚は、犯行を正当化しつづけ、「生産性のない人間は生きる価値がない」という主張を繰り返している姿が報道された。あまりに勝手で卑劣な犯行であるとして、メディアはこぞって植松死刑囚を糾弾した。
 本作では、上級国民でありながら、もはや「生産性」を失った人物が殺害される、というところから事件が始まっていく。吉田修一らしい、時代性を孕むキーワードの絶妙な配置である。この人物に対して、何者かが意図的に、その命が終わるよう、仕向けた。その犯人を捜していく、という物語である。
 持てる者と持たざる者、健常者と障碍者、そのコントラストを描きながら、吉田はさらにエロティックな要素をはめ込んでいくのを忘れない。これも、あとから無理矢理に読者サービスをすべきだから強引に配置した、というより、あえて地の文のようにして、被虐者(容疑者)と嗜虐者(刑事)の関係をねちねちと描き込んでいくのである。
 会いたかったって言えよ、という衝撃的な嗜虐者のセリフにもまた、被虐と嗜虐の交錯を通り一遍のものでなく、抗し難い人間の本性を深くえぐりだすものとして効果的に使おうという著者の野心が見え隠れする。
 吉田は、嗜虐者を単なる生まれながらの嗜虐者としては描かなかった。逆に、被虐者のしぶとさと、絶望的なまでの変わらなさを描いた。その被虐者の無意識の願いが、人間から攻撃性を引き出している、という仮説を、大胆にも吉田は本作で提示して見せているのである。
 生まれながらの嗜虐者が存在するのかどうか、遺伝的にその系譜は定まり、生産性のない人間となればどんな相手でも殺すことを辞さないという性質は失われることがないのか、被虐者は無意識的に自ら望んで嗜虐者にそう振る舞わせているのではないのか、上級国民の存在を許しているのは誰なのか――吉田は、現代社会に構造的に蓄積されたひずみを暴き立て、驚くべき構成力で本作に反映させている。これまで吉田の作品を読んだことのない人にもぜひ、読んでもらいたい作品である。

 (なかの・のぶこ 脳科学者/医学博士)

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