書評

2020年11月号掲載

食という言語による文学

カルミネ・アバーテ『海と山のオムレツ』(新潮クレスト・ブックス)

ヤマザキマリ

対象書籍名:『海と山のオムレツ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:カルミネ・アバーテ/関口英子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590168-4

 この世界において、日本ほどあらゆる世界の料理を口にできる国はほかに思い浮かばない。アジア圏はどこも外食産業が盛んではあるけれど、イタリア料理ひとつ取り上げても、日本ではシチリアにトスカーナ、そしてサルデーニャなど地域で細分されたレストランが存在する。日本の、情報収集に対する旺盛な意欲と開かれた意識が味覚の寛容さというかたちとなって現れているのかと感じているが、理由はともかく、日本に暮らす外国人にとってこの環境は悪くはないだろう。以前サルデーニャ出身のイタリア人と東京にある彼の故郷の料理店で一緒に食事をした時、「この店が無かったら日本には暮らせなかった」とサルデーニャの薄っぺらいパンを嬉しそうに頬張っていたが、味覚と嗅覚には、時として視覚情報よりも色鮮やかに、その食事の現場やそこにいた人々の記憶を脳裏に蘇らせる力がある。
 私はアバーテの故郷であるカラブリアには一度しか訪れたことがない。ただ、カラブリア出身の友人は多く、10代半ばでフィレンツェで留学生活を始めた時に、最初にルームシェアをした大学生もカラブリアの女性だった。彼女は本書にも出てくる料理人モッチャと同じく、実家から送られてくる束で括られた唐辛子やニンニクがぶら下がった部屋に暮らしていた。しかも、同居人は家族ではなくても食事の時には共にテーブルを囲んで食べるという彼女のルールがあり、料理も住人の当番制になっていた。よって私がイタリアで一番最初に覚えた料理も、彼女に伝授されたカラブリア料理である。今も北イタリアの家族にその当時の料理を作ると「辛過ぎる!」だの「脂っこい!」だのと言われるが、私にとっては見知らぬ土地での心細さを支えてくれていたあの時代の安堵を呼び覚ましてくれる、掛け替えのない料理である。
 この本を読んでいると、食事という味覚が内包する情報量の豊かさによって設けられた、盛大な宴に自分も参加しているような感覚に引き込まれていく。アバーテという作家を支えてきた郷里や移住先での数々の料理の描写から立ち込めてくるような味覚とにおいに混じって、その場にいた人々の、言葉と言葉が重なり合う快活な喋り声まで聞こえてくるような心地になる。人間の会話のない場面でも、食べ物は饒舌にその場の様子を語りかけてくる。味覚や嗅覚は細分化された言語と違って、どこに暮らすどんな人々とも感覚を共有できる効果があるからか、アバーテがこの作品に描き出しているカラブリアやドイツや北イタリアの様子が、湯気や炭焼きの燻った匂いなどによってリアルな立体像として頭の中に再現されるのだ。肉の焼ける匂いもパンに染みる肉汁も天国の蜂蜜のように甘いスイカも、そのままストレートに私たちの感性に届く表現である。おそらく食いしん坊な読者ほど、本書に描かれているアバーテの記憶が紡ぎ出す世界を色鮮やかに想像することができるはずだ。
 言語と味覚という二つのコミュニケーションツールは、この作品の軸になっている。成長とともに文学の世界へと耽溺するアバーテだが、"おいしい食べ物と同様、頭にも心にも栄養を与えてくれる"文学は、学生時代の彼の部屋の壁に貼られていたフランシス・ベーコンの"味見すべき本があり、丸呑みすべき本がある。そしてごく稀に、よく噛みしめて消化すべき本がある"という言葉から読み取れるように、食事とぴったり重なっていた。この件(くだり)を読みながら、私も自分の物理的貧しさと空腹が読書や人との対話で満たされていた留学時代の日々を思い出していた。お腹が空いていたから、食いしん坊だったから、あの頃は毎日浴びるように本を読めたのだと今更自覚した。
 オスマン帝国の侵攻からカラブリアに逃れてきたアルバニア人によって築かれた村の出身であり、イタリア語や方言とも違う言語を話すアバーテは、イタリアにもカラブリアにも移住先のドイツにも帰属しない、南イタリアの歴史をそのまま体現したような存在である。文学者としてのアバーテの多元的な視野は彼の味覚や嗅覚とも連動するものであり、アバーテにとっての食事はつまり彼の文学を司るもう一つの言語だということを実感しつつ、最後まで読み終えた後、私は急に、姑の作る大雑把でたいして美味しくもないサルシッチャ(腸詰)の炭焼きが食べたくてたまらなくなった。

 (やまざき・まり 漫画家)

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