書評・エッセイ

2020年11月号掲載

前人未踏の昭和史発掘。まさに巻を措く能わず!!

細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝

水道橋博士

対象書籍名:『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝
対象著者:細田昌志
対象書籍ISBN:978-4-10-353671-0

 著者とボクの出会いは、テレビ番組のタレントと放送作家の間柄だった。
 収録の合間の雑談で、彼が芸能史、格闘技史を細部まで年代、固有名詞を広く知悉し、それだけには飽き足らず自発的に取材し、ウラを取るルポライター体質の書き手でもあることを知った。
 そして、4年前の2016年、ボクが主宰するメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』の書き手に加わった。ボクからの依頼は、芸能界実録ものの軽めのエッセーだったが、彼が書き始めたのは、重厚すぎるほどの本格的ノンフィクション作品だったのだ。
 しかも、6年前から本人取材を続けている現在進行形の作品であり、序章を読むだけで、たったひとりで、この規模のノンフィクションを書くのは稀有であり、難関だと感じた。
 1970年代にキックボクサー沢村忠で日本プロスポーツ大賞を、五木ひろしで日本レコード大賞を制した、二刀流のプロモーター・野口修の人生を辿る評伝。
 確かに、調べてみると、これほどの実績をあげた人物についての文献、そしてネット上の資料も皆無に等しい状態だった。また関係者は高齢者ばかりで、物故者も相次ぎ、取材拒否も続いていた。
 やがて彼は、この執筆にのめり込み、放送作家の仕事も絞りだした。果たして、ボクがこの作品を最後まで支えていけるのか疑問だったが、ツテを辿り、新潮社のノンフィクション編集部に知己を得て、出版の確約を得たのだ。新人の作品で、これほどまでの大著を任されるのも異例なことだろう。
 そして、今、取材開始から10年の月日をかけ巻を措く能わずの畢生の大作が上梓された。
 改めて、本書は、プロモーター野口修の評伝ノンフィクションである。
 父親、野口進は元プロボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者。
 弟の野口恭は、元ボクシング日本フライ級王者。ボクシング界日本人初の親子王者。野口ジムは、後に世界戦を何度も開催する日本ボクシング界の超強豪ジムとなる。
 そして本人、野口修は、「タイ式ボクシングと大山道場の他流試合をプロモートした」「キックボクシングの名付け親」「沢村忠を世に出した」「五木ひろしを世に出した」......人物。
 著者に当初、予備知識としてあったのはこの程度であった。その後、10年に及ぶウラ取りが続く。あとがきの取材者リストを見るにその数、人脈、リンケージに圧倒される。
 野口修の功績を語る上で欠かせないのが、後のキックボクシング創設に至る、彼が企画したタイ式ボクシングvs.大山道場(後の極真会館)の対抗戦である。タイ国で開催されたこの戦いは、「日本の格闘技の歴史で一番のターニングポイント」(K‐1創始者・石井和義)と評されるほど意義深い。大山道場の中村忠と藤平昭雄が勝利し、3対3マッチを見事に制した。ここから、中村忠をエースに据える野口の青写真どおり、キックボクシング団体旗揚げとなれば、歴史は変わっていただろうが、総裁・大山倍達と野口修の関係は金銭問題で崩れはじめ、極真会館との関係は切れた。
 どんなノンフィクションの執筆過程に於いても障壁はつきものであるが、殊、マット史を取材する上で最大の障壁となるのは、それが"真剣勝負"であったのかどうかだ。真実に近づこうとすればするほど、関係者が健在であっても、「墓場まで持っていく」と、徹底した拒絶に阻まれるのが常である。著者に待ち構えていたのは、中村忠の代わりに、ブームの頂点、国民的なスターとなった沢村忠、その"沢村忠と真剣勝負"という、日本格闘技史における最大の難所だった。いや、格闘技関係者の間ではすでに決着済みかも知れないこの議論に、著者は、当事者、野口修から絶対的な言質を取ろうと挑み掛かる......。さらに、沢村の当時の対戦相手から言質を取るためにタイにも飛ぶ......。
 TBSと野口ジムは"無敵"沢村忠の存在によりキックボクシング人気を総取りしていたが、日テレ、NET、東京12チャンネルが相次いで中継を開始、熾烈な競争となった。他局・他団体では参議院議員・石原慎太郎に「八百長を絶対に許さないのが大原則」と就任挨拶をさせてコミッショナーに担ぎ上げたりと、当時のキックバブルが如何ばかりであったかが窺える。
「野口修を書くということは、野口家について書くということです」と、取材した安部譲二からは、その行為が抜き差しならない覚悟を必要とすることも著者は突きつけられた。
 父の野口進は、戦前、日本一の拳闘士でありながら、若槻礼次郎民政党総裁暗殺未遂事件で懲役5年を喰らった国士=テロリストでもあった。その父の代から続く児玉誉士夫らとの関係は、長男、野口修にも受け継がれたが、プロモーターとしては、その存在は軛(くびき)とも言えるものでもあった。戦前から続く、政財界と裏社会の繋がりで、群雄割拠する、このファミリー・ヒストリー、及び、往時のボクシング世界戦興行を巡る数々の権謀術数は本書の前半の読みどころである。
 沢村忠問題の他にも、長年、内縁であったとされる作詞家山口洋子との関係に迫るため、著者は彼女への取材を申し込んだが、決して野口修は許可をしなかった。
 本書後半の数章は、五木ひろしとその山口洋子について割かれた。
 1970年11月、『全日本歌謡選手権』に突如現れた売れないプロ歌手。名前は三谷謙(後の五木ひろし)。絶対的歌唱力で10週を勝ち抜く。審査員でもあり、銀座『姫』のママでもあった山口洋子は、この逸材を自分の手で『今までにない』歌手に、是が非でもプロデュースするべく、店の顧客の渡辺晋や堀威夫といった業界の大物ではなく、大人気の沢村忠がいる事務所の社長である野口修に託した。
「この瞬間、野口プロモーションに、ボクシング部門、キックボクシング部門に次いで、芸能部門が誕生した」
 1973年は野口修、人生最良の年となる。五木ひろしが『夜空』で「日本レコード大賞」を受賞した。
 しかしその実態は「賞レースは『運動』をしないと、絶対に獲れないものです」という、業界の掟、要は審査員に対する露骨な金銭買収だ。74年1月には「日本プロスポーツ大賞」で、三冠王になり、通算本塁打記録を更新した王貞治を抑えて、沢村忠が受賞した。読売新聞は激怒した。
 王国の絶頂から崩壊へ。やがて五木ひろしと山口洋子の関係はこじれ、五木は野口プロから独立。さらに沢村忠の引退、野口修の競走馬投資への傾倒、悪循環は走り出すと早かった......。
 晩年、著者が期せずして見掛けた、野口修の姿は、車椅子の山口洋子を押す姿、老老介護の姿だった。この内縁関係に、真に迫ることはできなかったが、著者は、気づく。野口修はインタビュー中に吸っていた煙草を消すとき"折って"揉み消す癖があった......。
 それはまさに、山口洋子が作詞した中条きよしのヒット曲『うそ』の歌詞ではなかったか。山口が唯一、野口修に寄せた曲ではなかったか。
 著者は、「話の辻褄の合わないものや、彼の記憶違い、意図的な作り話については、精査した上で割愛」する主義を貫きながら執筆にあたった。たとえそれが野口修に「これを書き残してほしい」と哀願された話であったにしても、その原理原則を貫いた。
 しかし、沢村忠の試合を裁いたタイ人レフェリー、ウクリッド・サラサスの言をこうも引いている。
「沢ちゃんのことをよく言わない人は、いました。でも、その人だって判っていました。『沢ちゃんがいなければ、キックは続かない』ということを。選手だけじゃない。記者の人もそう。みんな判っていました」「彼が弱い選手なら、苦しまなかったかもしれない。でも、私から見て、彼は弱い選手ではなかった。彼自身も弱くないことを判っていたと思う。だから、苦しかったのかもしれません」
 沢村忠の高視聴率に沸き狂ったテレビ局、裏金が横行する芸能界・スポーツ界の賞レース、そして真実と沈黙とリップサービスを綯い交ぜにして著者を迂遠な時空旅行の徒労に追い込んだ、晩年の野口修。虚実の皮膜に生きた希代のプロモーターは本書の誕生を待つことなく、2016年、享年82で没する。携帯電話の着信記録に残る最後の話し相手は著者であった。
 著者が鬼気迫る執念でノンフィクションという「真実」を追い求めた先に辿り着いたのは、大衆がそう信じていたいだけの「うそ」ではなかったのではないか。

 (すいどうばしはかせ タレント)

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