書評

2020年12月号掲載

「人間らしさ」の外へ

マーカス・デュ・ソートイ『レンブラントの身震い』(新潮クレスト・ブックス)

森田真生

対象書籍名:『レンブラントの身震い』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:マーカス・デュ・ソートイ/冨永星訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590169-1

 たとえば庭にいるカマキリやミミズの姿を見て、彼らがいつか宇宙の真理を発見する日が来ると考える人間はあまりいないだろう。私たちは、人間以外の生き物が、いつかこの世の隠された真実を暴き出す可能性があるとは思っていないのだ。にもかかわらず、自分たちにはそれができるかもしれないと信じてきた。人間は、理性という特別な力によって、やがて真理に至ることができる――この信念がなければ、近代の学問の発展もなかったであろう。
 だが、人間だけを特別視するこうした信念は、知的な機械という新たな他者の台頭によって、にわかに揺さぶられ始めている。コンピュータは人間の脳には到底扱いきれない膨大なデータを高速に処理しながら、人間とはかけ離れた方法で、様々な課題を解決していく。機械がアクセスできる潤沢なデータや、高速な計算の処理能力と比較するとき、たかが人間とその小さな脳に制約された知性を、特別視する根拠も怪しくなってくる。
 実際、近年の人工知能の進歩は目覚ましい。盤上では、チェスや将棋で機械が人間を打ち負かすようになり、最後の砦とされてきた囲碁においてさえ、機械が人間を圧倒するようになった。
 人工知能の歴史は、これまで人間にしかできないと信じられてきた多くのことが、実は機械にも実行できると証明してきたのだ。何が人間にしかできないかをはっきりさせることで、人間をその他の生き物から区別しようとしてきた近代の伝統にとって、これは由々しき事態である。
 本書の著者マーカス・デュ・ソートイは、数学者としての立場から、「創造性」こそが人間と人間でないものを決定的に分かつ能力だと信じる。だが彼は、人工知能の急速な進歩を前に、半信半疑でもある。創造性という聖域においてさえ、人間が機械に屈服する日が来るのか――これが著者が本書で「実存をかけて」追究していく主題だ。
 この本の最大の魅力は、著者の迷いと逡巡が、素直に吐露されている点にある。機械はまだ当分は人間の創造力を獲得できそうにないと安堵する瞬間もあれば、いや、機械の進歩は人間のそうした甘い予測を常に裏切ってきたではないかと、緊張を取り戻す瞬間もある。安易に結論を出すことのないまま、人工知能と創造性をめぐる最新の研究と実践の現場にみずから足を運び、そこからライブ感に溢れる思考を紡ぎ出していく。
 創造性の領域における人工知能研究の最前線を取材する本書は、数学の他にも囲碁や絵画、音楽など話題が豊富だが、数学者である著者が特に強い関心を寄せているのは、数学で機械が人間を超える日が来るかだ。
 数学においても、今後コンピュータが決定的に重要な役割を担うようになる可能性がある。何しろ、数学は難しくなりすぎてきているからだ。数学という無限の宇宙の、小さな片隅をマスターするだけでも、何年にも及ぶ修行が必要になる。さらに問題は、数学の高度な複雑化のため、他の研究者の成果を厳密に検証することが、どんどん困難になってきていることだ。
 人間が証明した定理の正しさを、人間だけの力で確かめることが難しくなってきている。数学は無限で、人間は有限なのだから、人間の脳が扱える数学だけが、数学のすべてではない。数学の新たな領野を切り開くためには、人間という限界を突破していく必要があるのかもしれない。
 詳細は本書をご覧いただくとして、将棋や囲碁の世界をコンピュータが席巻したように、数学にもまた機械の足音が忍び寄ってきている。著者はそれでも、最後まで機械に代替できない「人間らしさ」とは何かを模索する。
 だが、あらゆる生き物が織りなすこの宇宙から「人間」だけを特別な存在として切り出そうとする姿勢そのものを反省する好機を、人工知能が与えてくれているようにも思える。「前提とみなされていた思い込みを捨て」「システムの外に踏み出して」いくのが、創造性だと著者は語るが、他の生物と自分を区別する「人間らしさ」に固執する思い込みを捨て、人間と人間以外を懸命に区別しようとしてきた常識の外に踏み出していくことから始まる創造もあるのではないか。本書を読みながら、私はそんなことを考えたのである。

 (もりた・まさお 独立研究者)

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