書評

2020年12月号掲載

没後50年 三島由紀夫特集 Yukio Mishima 1925-1970 Special Section

三島由紀夫とヴィスコンティ

小池真理子

対象著者:三島由紀夫

「久々に傑作といえる映画を見た。生涯忘れがたい映画作品の一つになろう」(『映画芸術』1970年4月号)
 三島由紀夫は、イタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『地獄に堕ちた勇者ども』について、このように切り出している。冒頭から余計な説明抜きで「傑作」の太鼓判を押し、掛け値なしの高評価を下すのは、三島にしては珍しいことである。
 この映画が日本で公開されたのは、1970年4月11日。三島が市ヶ谷自衛隊駐屯地で自決する、わずか七ケ月前である。彼はおそらくその年の一月か、遅くても二月に試写か何かで鑑賞し、映画評を引き受けたのだろう。イタリア本国での公開は前年だった。
 私はかねがね、三島由紀夫とヴィスコンティには、いくつもの類似点があると感じていた。二人とも上流階級の富裕な家に生まれ育ち、三島の父方の祖母は藩主の孫、父は帝大卒の官僚、母の一族は代々、漢学者。一方、ヴィスコンティはイタリアの名門貴族。幼いころからオペラや芝居に馴れ親しむ生活を送っていた。
 ヴィスコンティのほうが十九歳年長だが、ナチス台頭や第二次世界大戦など、共に激動の時代を生き、片やリアリズムと耽美(=ヴィスコンティ)、片や文武両道と文学的崇高さ(=三島)を徹底追求したという点において、また、そのドラマツルギーの豊かさにおいて、さらに加えれば、その美学に彩られた死生観にも、私には両者が双生児のように感じられてならない。小説家と映画監督という違いはあれど、国籍や言語を超えて、これほど似通った表現者もいなかった、とまで思うのである。
 周知の通り、三島は映画に出演はしても、監督したのは『憂国』のみ。文字通り、「ぼくはオブジェになりたい」というタイトルをつけたエッセイの中で、小説家はオブジェにはなれず、主体になってしまうが、俳優は「自分の意志を他人にとられてしまったような、ニセモノの行動」をとることができるので魅力的だ、と書いている。若いころから俳優として役を演じることを夢みていた三島は、映画監督もまた「オブジェになれない」という点において小説家と似ている、と言及する。
 オブジェにはなれないが、「自分の好きな世界を言葉で築いて、現実にないもの、あるいは、現実に似たものを作り出す。これが行動的ということだ」と書き(1959年12月1日・『週刊公論』)、監督と小説家は共に行動的人間であるとしている。ヴィスコンティとの共通項は、そこにも見出すことができる。
 だが、私の知る限り、三島由紀夫がヴィスコンティの映画について書いたものは一つしかない。それがこの、『地獄に堕ちた勇者ども』についてなのだ。
 かくも深く陶酔し、賛辞を送った監督の作品なら、三島を唸らせるものが他にもあったはずである。しかし、ヴィスコンティの「ドイツ三部作」とされる『地獄に堕ちた勇者ども』『ベニスに死す』『ルートヴィヒ』が我が国で熱狂的に迎えられ、いわゆるヴィスコンティ・ブームが起こったのは、三島の死後であった。
 となれば致し方ないとはいえ、考えてみれば、三島存命中に日本で公開された作品にも、たとえばドストエフスキー原作の『白夜』、アラン・ドロンを起用した『若者のすべて』など、三島が高く評価しそうなものはあったのに、それらについては何も書かれていない。ただ一作『夏の嵐』について、『地獄に堕ちた勇者ども』の映画評の中で軽く触れるにとどまっている。
 ということは、十九世紀の政治的混乱の中におけるイタリア貴族を描いた、絢爛豪華な名作『山猫』(日本公開1964年1月)も観ていなかったのだろう。忙しくて観逃したのか、あるいはヴィスコンティ監督の作品に、まだ興味関心を抱いていなかったのか。
 三島は、初期のヴィスコンティのネオレアリズモの手法が嫌いだった、と言われている。そのため、とりたてて新作を待ち望んではいなかったのかもしれない。いずれにせよ、三島がおよそ初めてヴィスコンティという監督に目を向け、深く酩酊したのが、『地獄に堕ちた勇者ども』であったことだけは間違いないと思う。
 未見の読者のために書き添えると、この映画の舞台は、ナチス台頭時代のドイツ。男爵でもある製鉄王一族の頽廃と没落が、これ以上ないほどの耽美な映像で描かれている。キャストはダーク・ボガード、イングリッド・チューリン、ヘルムート・バーガー、シャーロット・ランプリングら、ヴィスコンティ好みの俳優ばかり。野心、嫉妬、妄執、復讐心といった生々しい感情が入り乱れる中、頽廃は刻々と極まって、人々はしのび寄るナチズムに搦めとられていく。さらにそこに、女装趣味や小児性愛、男色、母子相姦といった、世紀末的な異端の情景が加わり、至るところにヴィスコンティならではの禁断の優雅さがあふれていて、こうなると、まさに三島の世界にもそのまま重なってくる。
 ナチズムはコミュニズムと共に、古今東西、映画や演劇、文学のテーマとして数知れず取り上げられてきた。三島の戯曲にも『わが友ヒットラー』という傑作がある。
 本作の映画評の中で、三島は「ヴィスコンティがこの映画で狙ったものが、いまさらナチス批判やナチスの非人間性の告発である、ということは疑わしい」とし、「二十世紀はナチスを持ち、さらに幸いなことには、ナチスの滅亡を持ったことで、ものしずかな教養体験と楽天的な進歩主義の夢からさめて、人間の獣性と悪と直接的暴力に直面」したと書いている。
 つまり、嫌悪すべき唾棄すべきナチスの存在をスケープゴートとして、皮肉にも芸術家たちは、人間の「悪」を頽廃美として描くことができるようになった......とも言えるだろう。
 三島の「楯の会」を例にあげるまでもなく、彼もまた、自作の中でデカダンス漂う、きわめて理知的な文体で悪魔的な人間心理を描き、さらには自身の幕引きを演出するに至った。その意味でも、三島とヴィスコンティは、酷似していたように思える。つまりそこには常に「死」が意識されていたのだ。しかも、「劇的な死」が。
 三島と親しかった劇作家の堂本正樹は、「(三島は)戯曲を書く時、つねに幕切れから筆を起した」(『三島由紀夫の演劇』)と書いている。言われてみればたしかにその通りで、戯曲のみならず、三島は小説を書く際も、幕切れから物語の全容を眺めていたような気もする。
 たとえば『奔馬』の最後の一行。『天人五衰』のラストシーン。あのイメージが初めに作家の中に生まれ、深く根をおろし、「豊饒の海」全四巻の全体も、そこから組みたてられていったのかもしれない、という想像も、あながち非現実ではないかもしれない。
 三島の人生は、それ自体、舞台上の「劇」のようなものだった。劇的な人生を歩み、あたかも劇場で演じられる悲劇を客席から眺めるかのように、それを作品化し続けたのが三島だった。
 ヴィスコンティは、遺作となった『イノセント』のラストシーンで、自らの頭を拳銃で撃ち抜こうとしている主人公の男に、こう言わせる。
「眠らないでくれ。幕引きを見せるから」
 三島も愛読していたと言われるトーマス・マン原作『ベニスに死す』の最後も、老いて病んだ男の「死」で幕をおろす。冷たい夜の湖畔に仰向けに横たわった、バイエルンの若き王。その美しい死に顔がクローズアップされたところでエンディングを迎える『ルートヴィヒ』も然りである。
 三島由紀夫があの、五十年前の秋の日、自ら生命を絶たなければ、間違いなくこれらヴィスコンティ作品を鑑賞し、耽溺していたことだろう。そして毎回、並外れた賛辞を贈っていただろう。三島による、ヴィスコンティ映画の評価は翻訳され、各国で読み継がれていっただろう。ことによれば、ヴィスコンティが三島由紀夫の作品をイタリアに置き換え、映像化していたかもしれない。
 それは『春の雪』か。『禁色』か。あるいは『近代能楽集』だったか。
 夢まぼろしをみるような想像は尽きない。

 (こいけ・まりこ 作家)
※新装版『春の雪』(新潮文庫)の新解説は小池さんの執筆です。

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