書評

2020年12月号掲載

特別エッセイ

姉と『ままや』と川野さん

――作家と編集者の特別な関係が終わってからの歳月

向田和子

対象著者:向田邦子

 姉の向田邦子が私を避けていた時期があったんです。邦子が乳癌の手術をうけたあと、退院してすぐの頃で、ことあるごとに私を遠ざけようとしていました。
 例えば用件があって彼女のマンションへ行くと、それまではお茶なり果物なりを出してくれて、九つ違いの姉妹二人きりで遠慮不要のおしゃべりに興じたものなのに、玄関先ですぐに帰らせようとする。そんなことがあれこれ続いたんです。
 私がぼーっとしているようで、妙にカンのいいところがあるのを邦子は知っていましたから、それで私とはなるだけ顔を突き合わせないようにしているんじゃないか――。そう思って電話をしたんです。「お姉ちゃん、何か私に嘘ついてない? 隠し事してない?」から始まって、それまでケンカなんかしたことがなかったのに大ゲンカになりました。
 隠し事をしている本人にすれば、気にしているところをつつかれるのだから、余計にかあーッとなりますよね。「ホントのこと言ったらどうなの?」と泣きながら食い下がる私に、姉は「嘘をつかない人間がいる? 何が悪いの!」って言うなり電話を置いてしまった。
 小一時間後、今度は姉の方から電話があって、「今日の予定は全部キャンセルしたから、四谷見附のお店まで来てくれない?」と誘い出されました。出かけてみると、その店は大通りから路地を入った先にあって、仕舞屋ふうというか、古い民家を改築した和食屋さんです。四季の花々が咲くお宅のはなれの居間を店とし、素朴で無口な店主(女)の惣菜と得意料理を出す、ほっとする空間でした。
 その晩、言われたのは、
「このお店を見せたかったの。こういうお惣菜屋だったら、和子ちゃんもできると思う。お客の質もいいから、絡まれることもないし、掛け取りの心配もない。開店のためのお金は私が準備してあります。やってみない?」
 ということ。
 もうひとつ言われたのは私を避けていた理由で、乳癌の後遺症と血清肝炎のせいで具合が悪く、原稿も左手で書いている、ということでした。カンのいい私を避けていたのは、もうこれ以上心配させたくなかったから、というのです。
「下手したら(余命)半年と言われたの」
 吃驚した私が「すぐに仕事をやめて治療に専念して」と懇願しても、姉は「仕事をやめろというのは、私に『死ね』ということよ」と取り合ってくれません。
 つくづく、仕事に対する価値観が私とはまるで違うなアと思ったものですが、それでも姉の意向にできるだけ沿ってやろう、お惣菜屋もやろう、と即決しました。これが、姉が〔黒幕兼ポン引き〕を自称し、私が社長兼皿洗い専門職兼雑用主任を務めた総菜・酒の店『ままや』の始まりです。私は五反田で喫茶店をやっていたのですが、すぐに閉店を決めて、和食の料理屋さんへ修業に出ることにしました。
 ちょうど心臓の調子を悪くしていた母も、具合が良くなかった姉も無事に快復したあと、一九七八年五月に『ままや』は開店。姉が亡くなる三年三ヶ月前のことです。

 修業も大袈裟ですが、喫茶店を閉めてから、青山の割烹で働かせてもらいました。
 ご主人がいい方で、「和ちゃんと呼ばせてくれ」と言ったあと、「和ちゃんが今さら板前になれるわけはない。だから店を経営する側の人間として、板前たちをじっくり見て、気質や根性を深く知ればいいから」と言ってくれました。板前さんという種族が持つ良いところも悪いところも観察して、ご主人がどこまで自由にさせて、どこから許さないのか、そしてどんな注意をするのか、そんなところを見るように心がけたものです。
 よく言われるように、水商売をやっていると確かに人を見る目は養われる気がします。板前さんをはじめ雇っている人たち、毎日のお客さんたち、仕入先の人たち、さまざまな人間を背中とか脇とか、いろんな角度から見ることになるので、会社勤めの人が――私も日本橋のOLを長くやった経験がありますが――見ない・見えないところが見えるようになったかもしれません。

「おひろめ
 蓮根のきんぴらや肉じゃがをおかずにいっぱい飲んで おしまいにひと口ライスカレーで仕上げをする――ついでにお惣菜のお土産を持って帰れる――そんな店をつくりました 赤坂日枝神社大鳥居の向い側通りひとつ入った角から二軒目です 店は小造りですが味は手造り 雰囲気とお値段は極くお手軽になっております ぜひ一度おはこび下さいまし」
 姉がこんな開店の案内状を書いてくれましたから、新潮社の川野黎子さん(編集部注・今年十月四日に八九歳で逝去)もすぐに『ままや』へいらしてくれたと思います。川野さんと姉は実践女子専門学校(のち大学)の同級生ですが、むしろ卒業してから関係が近くなったそうです。もっとも、姉からきちんと紹介されたことはありません。気がつくと、常連になって下さっていました。
『ままや』開店の翌年暮から、川野さんが編集長をやっていらした「小説新潮」で、姉は初めての小説、『思い出トランプ』の連作を書き始めることになります。これはもちろん川野さんを信頼していたからでしょうね。
 川野さんは、姉と原稿のやり取りをする直接の担当者としてY青年をつけてくれました。
 何回か、開店前の『ままや』で姉とYさんが小説の打合せをしていた光景を覚えています。入口そばの卓で、二人が原稿を挟んで向き合っているのですが、原稿と言っても一枚か二枚くらいしかないんですよ。書きあぐねているのか、自信がないのか、姉はたった一、二枚の感想をYさんから聞きたくて、呼び出していたのだと思います。Yさんは、ゆっくりと丁寧な口調で姉をノセたり、解きほぐしたりしてくれていました。姉はホメたら木にのぼるタイプなんです。
 Yさんみたいな優しく導いてくれる編集者をつけてくれたのも、川野さんが姉の性格や、「初めて小説を書く」という状況をよく考えて下さったからでしょう。『思い出トランプ』で直木賞を受賞しても、川野さんやYさんの態度が変わることは微塵もありませんでした。

 直木賞受賞の一年一ヶ月後に、台湾の飛行機事故で姉は亡くなりました。死の直後の何ヶ月かのことはあまり覚えていません。
 その後も川野さんは、出版関係のパーティのあとなどに『ままや』へふらりと立ち寄ってくれました。決まって夜九時頃で、店とすればお客さんがいったん少なくなる時間帯です。
 ある夜、静かになった店で、川野さんが「向田さんがいなくなったことが、本当に残念でたまらない」と心底からの声で言われた。もう、姉が亡くなってしばらく経ってからのことです。川野さんはこんなにも姉のことを、「引きずる」と形容すると申し訳ないのですが、心の中に留めてくれているのかと本当に有難かったです。
 でも言葉にしなくても、川野さんが邦子のことを思い続けて下さっているのは伝わっていました。邦子がいなくなってからも『ままや』へしばしばお見えになること自体もそうですが、店での視線の動かし方や帰る時の仕草、お金の支払い方、私へかける声の調子などでパッとわかるものです。同時に、川野さんの人間の風格とか匂いのようなものも伝わってきました。

 母が「邦子の著作権は和子に任せる」と決めたのですが、私は放送の世界や出版業界のルールも慣習もまるで知らないので、姉の書いたドラマをたくさん演出してくれた久世光彦さんと川野さんにどう振る舞えばいいのかを相談しました。
 川野さんは「とにかく疑問が少しでもあれば、とことん聞いたらいいし、それで和子さんが納得出来なかったらご破算にすればいい」、久世さんは「和子さんみたいにガンとして動かないタイプは、相手も緊張するからいいと思う」と教えてくれました。姉の著作権管理者としての私は、お二人に教わった基本方針のままやってきているように思います。
 姉が亡くなって二十年近く経った頃、姉の残した〔遺言〕と〔恋文〕を世に出した方がいい、と私は結論しました。
 没後、夏が来るたびに姉に関する取材を受けてきて、でも「作家は死んだら終わりだ」と私は考えていたので、毎年「今年で最後だろう」と思ってきたのです。それが十年経っても、十五年経っても、リアルタイムで姉の書いたドラマを見ていないような若い世代の方が取材にやって来て、新鮮な質問をしてくれる。「ああ、作家は読者によって育てられることもあるんだな」と気づかされました。
 そして、邦子の遺言や恋文を公にするのは、妹の感情としてはNOだけれど、作家としての生き方や作品の理解のためには本にする必然性があると思ったんです。
 久世さんに相談すると、遺言は文春に、恋文は川野さんに渡すのがいいだろうと言われました。でも、川野さんに持って行くと、「恋文は出さない方がいい」というご意見でした。いわば作家の舞台裏を見せることになりますから、最初は出版に消極的だったのです。やがて考えが変わられて、やはりYさんが私のところに来られ、「恋文には解説というか、当時の邦子さんを回想する文章が必要ですが、これはどれだけ時間がかかってもいいから、和子さんが自分で書かないと出す意味がないです」と言われた。下手でも何でも姉のためだと、『向田邦子の恋文』を書くことになりました。

 川野さんは、一九九八年に閉店するまで『ままや』へちょくちょく顔を出し続けて下さいました。「会社に入る前は飲めなかったのに、仕事で鍛えられたのよ」とよく仰っていた通り、お酒は強かったです。
 二合徳利を注文されて、飲むとお食べにならないからモズクとかヌタくらいを肴に、アルバイトが食べている弁当の中身について茶々を入れたりしながら楽しそうに飲んでらっしゃいました。
 姉の愛読者だというママがやっている銀座のクラブへも連れて行ってくれたことがあります。およそ水商売くさくない文学好きのママの店で、川野さんは悠然と呑みながら、面白おかしく仕事のこと、人生のことをお話ししてくれたものです。
 ある大作家について、「色恋まではいかなかったけど、人間的に素敵で、才能はもちろんあるから、夢中になったのよ。いや、もう、若気の至りでした」なんてことも、いやらしくなく、さらりと笑い話として語られていた。
 さっぱりしていて、品も愛敬もあって、器量の大きな、一筋縄ではいかない方でした。仕事の責任感も強く、そのうえ人間に対する思いが深かった。亡くなられたのは残念ですが、邦子の没後四十年を来年に控えて、川野さんには邦子も私も長いあいだ、たいへんお世話になったことを改めて噛みしめているところです。

 (むこうだ・かずこ)

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