書評
2020年12月号掲載
私の好きな新潮文庫
『デミアン』以来
対象書籍名: 『デミアン』/『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』/『はつ恋』
対象著者:ヘルマン・ヘッセ、高橋健二訳/トーマス・マン、高橋義孝訳/ツルゲーネフ、神西清訳
対象書籍ISBN:978-4-10-200102-8/978-4-10-202201-6/978-4-10-201804-0
(1)デミアン ヘルマン・ヘッセ、高橋健二訳
(2)トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す トーマス・マン、高橋義孝訳
(3)はつ恋 ツルゲーネフ、神西清訳
僕はよくインタビューなんかで「『デミアン』以来」という話をします。高校生になったばかりのころ、たまたま手にしたヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読んで脳の手術を受けたようなショックを受け、自分は芸術家になるべき人間であることに気づき、以来その確信は変わらず現在にいたっている――という話です。この話は嘘や誇張はなく事実です。ただこれ以上の話はできなくて、毎回ここで終わってしまいます。なぜなら僕は、その十五歳の春以来『デミアン』を読み返していなくて、小説の内容をほとんど覚えてないからです。
まずは自分の記憶力の悪さに呆れ果てます。ただしこれは一般的な記憶力の問題以外に、若い時の読書法の問題もあるのでしょう。とにかく勢いこんで読む――脳内にヘンな興奮物質が溢れてたんでしょうね。最愛の相手との燃えるようなセックスほど、その一部始終が思い出しにくいのに似た、あの必ずしも悪くはない「記憶の靄化」。その読書が無意味だったとは思いません。無意識の領域には何か残っているだろう――あるいはその時々の自分の進む方向を大なり小なり変えたなら、それが「残った」ということだ――と考えることにしています。
その「芸術家になる」という話ですが、ようするに「個の確立」――それも「ヨーロッパ近代的な意味における」――というやつだったんだと思います。人並みの思春期における自我の目覚めと時期を同じくして、幼少期から抱えていた一種の発達障害による日本社会での生きづらさが、この時、一発逆転の突破口を見つけたのだと推察しています。機は熟していて、きっかけは『デミアン』でなく、例えば『ライ麦畑でつかまえて』でも良かったのでしょう。その方が新しいぶん、アメリカであるぶん、その後の展開がスムーズだったかもしれませんが、ともかく僕の運命は『デミアン』だったのです。
続けて僕はトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』やツルゲーネフの『はつ恋』といった、十九世紀から二十世紀にかけての、いわゆる「世界名作文学」を読みました。『トニオ・クレーゲル』のテーマは芸術家と一般人との対立であり、『デミアン』で決めた芸術家という進路希望をさらに強固なものにしました。その後「三島由紀夫専科」みたいになる前の二年間ほど、僕の読書はそんなヨーロピアンな傾向にありました。
僕の同世代の現代美術家には「自分の創作の原点はガンダムのプラモデル作りです」なんて語る人が多いです。芸術といえば『デミアン』が象徴するヨーロッパ近代芸術の方が王道なはずですが、僕は自分の属する業界でそういう意味での仲間がなかなか見つからず、孤独な思いをしています。原点が『デミアン』って、今の日本で表現者をやるに当たって、けっこうなハンデかもしれませんね。あの古臭く青臭い欧風ロマンティシズムが。でもそのハンデを内心誇りに思ってたりもします。
僕は最近二冊目の小説『げいさい』を、一冊目の『青春と変態』から二十四年ぶりに出版しました。どちらも青臭い青春小説で、そのルーツの大切な一つが高校一、二年生頃の読書体験にあることは明らかです。特に『はつ恋』あたりの影響で、「小説といえば青春を――それも苦い失恋を――描くもの」という強いマインドセットが、僕の心の奥底ででき上がっちゃっているのかもしれません。
さて、僕は死ぬまでにもう一度『デミアン』を読み返すことはあるのでしょうか? あの時の僕の感動が誤読による勘違いであることが判明し、僕の数十年が音を立てて崩れ落ちるような心配もあります。靄のようなきれいな思い出だけを胸に、このままあの世に旅立った方がいいような気もしていて......。
(あいだ・まこと 美術家)