書評・エッセイ

2021年1月号掲載

誰でも分かる、フーコー『性の歴史』

ミシェル・フーコー『性の歴史IV 肉の告白』特別書評

石田英敬

対象書籍名:『性の歴史IV 肉の告白』
対象著者:ミシェル・フーコー著/フレデリック・グロ編/慎改康之訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506712-0

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 ミシェル・フーコー『性の歴史』第四巻『肉の告白』ついに刊行! この事件の意味が分からなければ、きみには現代の思想を語る資格がない。でも、センセイ、思想とか哲学なんてボク/ワタクシには関係ありませんのよって、きみはおっしゃるかな?
 いや、そんなことはないんだよ。きみの周りのこの世界をみまわしてごらん。そして、きみ自身の生と性と精神の経験をふりかえってごらん。あなたは、処女? きみは童貞? ゲイ? レスビアン? ヘテロ? バイセクシャル? トランス? カミングアウトした? #MeTooとかも知ってるよね?
 いや、あわてないでほしい、これはとってもまじめな話なんだ。思想とか哲学って、そうしたスベテを徹底的に考えることなんだぜ。それでね、そうしたことをあらためて考えるために読むべきなのが、このフーコーの『性の歴史』なんだ。
 このたびめでたく新潮社から刊行された第四巻『肉の告白』のクライマックスで、フーコーはこんなことを書いている――「性=性器(セックス)は、人間にとって、神にとっての人間のようなものである。つまりそれは反逆者なのだ。神の人間としてのアダムと同様、人間の前で人間に逆らって立つ人間の人間〔つまり性=性器〕は、その不従順の後で、我が身を隠さねばならないと感じたのである。」
 つまり、性=性器は人間なんだ。じゃあ、人間であるきみはいったい何なんだ? こんなステキな文章を読みながら、きみは、この世のすべての――といってもここでは一義的には〈西欧の〉という意味なのだが――道徳的で人間的なるものの2500年ばかりの〈性の歴史〉の経験を、フーコーの頁を繰りながら〈思想〉するようになれるはずで、きみはこれから〈自分〉としてどう生きていけばいいんだろうとか、いろいろ考えられるようになるはずなんだ。
 さて、前置きと広告はこれぐらいにして本題に入ろう。
 この本、じつは、とても複雑な来歴をもっている。
 フーコーは、1984年に57歳でエイズで亡くなってしまった。最後の著作となった『性の歴史』の刊行が始まったのは1976年。第一巻としてマニフェストともいうべき『知への意志』がまず出版された。ところが、計画はその後大幅な変更をうけ、第二巻『快楽の活用』、第三巻『自己への配慮』が刊行されたのは8年後、フーコーの死のわずか10日前のことだ。さらに、1982年にはほぼ完全に書き上がっていた、第四巻『肉の告白』の原稿は「死後出版を認めず」というフーコーの遺言のせいで30年以上にわたって日の目をみなかった。しかし、歳月とともに遺言の呪縛は解かれ、2018年になってフランスで原書が出版され、今回日本語に訳されたというわけなのだ。『性の歴史』というパズルの最後のピース――たぶん最も重要なピース――が、三十数年後のいまになって嵌め込まれ、作品全体が姿を現したというわけだ。
 1976年の第一巻『知への意志』が問おうとしたのは、フーコーが「生権力」とその頃呼び始めていた、性をめぐって生を問題化する近代(16世紀から19世紀にかけて)の権力の問題だった。性はいつの時代も禁止されたり抑圧されたり検閲されたりしていると思われている(これを「抑圧の仮説」と呼ぶ)。でも、ほんとうだろうか。自分の性的行動を〈告白〉するとはどのような〈真理を言うこと〉なのだろうか。性で生を統御とはどんな統治だろうか。この問題提起は決して古びていない。だって、性の問題が問われるとき、いつもカミングアウトはセットになっているし、#MeTooとかで、女性や性的マイノリティが告白=告発して自由を得ようとするとき、いままで口に出来なかったことを言説化することは解放につながるのだと考えられているだろう?
 でも、フーコーは、その後の8年間の探究で西欧の歴史を遠く古代ギリシャ・ローマにまで遡っていった。この大きな研究は、古典古代からキリスト教の最初の数世紀にいたるまで(大体5世紀ぐらいまで)の「〈欲望人間〉の系譜学」へと大きく向きを転じることになったのだと語っている。
 死の直前にフーコーが与えた説明はこうだ。
 第二巻『快楽の活用』は、古典期ギリシャの医学や哲学(プラトンとかアリストテレスだね)が、性的行動における「快楽の使用」をどのように考えたかの研究だ。身体との関係、妻との関係、少年との関係、真理との関係という、経験の大きな四つの軸上に、禁欲や厳格な性生活といったテーマをどのように考えたかの研究だ。つづく、第三巻『自己への配慮』では、研究対象をローマ帝政期の紀元後の最初の二世紀(セネカとかプルタルコスとかだね)に移して、そうしたテーマがどのように屈折して、「自己への気遣い」を主とする「生の技法」論となっていったのかが扱われた。そして、完結巻である『肉の告白』では、「キリスト教の最初の数世紀における肉の経験と、欲望の解釈学および清めのための欲望の解読がそこで果たす役割とを扱う」のだ、と宣言している。
 その第四巻『肉の告白』では、紀元2世紀から5世紀にかけて(代表者は聖アウグスティヌスだね)の初期キリスト教における、「欲望の解釈学」の成立、「欲望の解読」の問題を扱うというんだ。
『性の歴史』、しかも、性的行動とか生の技法なんて聞くと、セックスのことが書かれていると思うでしょう。きっとわいせつなこととか書かれているんとちがうんか(このへん関西弁口調や)と思うやろ。
 よく読むとそれも書かれている。随所に行間にね。
 ソクラテスやプラトンたちはゲイだったんだ、とか。精液はどんなもので、浪費してはいけないとか、何歳ぐらいの男が何歳ぐらいまでの少年となら愛し合ってよいとか。
 女とは要するに、畑のようなもので、それを耕して、畝のくぼみに、男は種を蒔くものだ、とか、どんな畑でもむやみに耕してはいけないから娼婦とかと交わってはいけないとか。奥さんとセックスするときには、奥さんが快楽に身も心も奪われて、乱れすぎて錯乱してしまわないように見守りながらセックスするのが立派な夫のつとめなんだぞとか、そういうことがいっぱい書かれてる。
 他方で、それと等分というよりは圧倒的な分量で、禁欲や厳格な性について書かれている。キリスト教はまったくそればっかりだ。節欲とか、処女・童貞性とか、悔い改めとか、告白とかだ。
 だから、読者は両方愉しめるわけだが、一番おもしろいおもしろがり方は、これらの思想家たちが、セックスを考えないようにするにはどうしたらいいかを解き明かすためにセックスを徹底的に考えたんだということを究明していくフーコーの調査のラディカルな徹底ぶりなんだ。
 思想家たちの作業は、自分自身と、自分の心を観察して、「精神的闘争」をして、情欲とは何かを考え抜いて、どうしたら「自己」を「知る」ことができるかを考えようとしていたということなんだ。その問題を掘り下げていくのが『肉の告白』の真骨頂で、カッシアヌスやアウグスティヌスといった初期のキリスト教の神学思想家が最後に行き着いたのは何だと思う?
 詳しくは、本をお読み頂くしかないのだが、日本ではなじみのない教父文学を引用しながら、私のようなフーコーの著作を読み込んできた学者でも知らないことだらけの、まさにディープな議論が重ねられていく。そこは、シンカイ先生のまことに正確で読みやすく感嘆するほどスバラシイ日本語訳を丹念におって頂くしかない。だけど、ハイライトを少しだけ分かりやすく紹介しておこう。
 第二章では、「処女・童貞であること」と題されて、修道士にとっては核心となる、節制、処女・童貞性の技法、他者による教導、告白といった技術が組み合わさっていくさまが克明に分析されていく。処女・童貞であるとは、要するに、純潔ということなわけだが、修道士のカッシアヌスは完璧な純潔の生に到達するために「純潔性の闘い」の段階を細かく分けて記述している。あらゆる誘惑や欲望の要素を生活から取り除いていって、異性や少年との交流や接触は言うに及ばず、思念や表象からもセックスをどこまで排除できるのかというチャレンジだ。最後に行き着くもっとも難易度の高い修行は、夢の中にも性的なものが出てこないようにする修行なんだ。具体的には、それは「夢精」をどう解決するかという問題だ。どうしたら性的な夢を見ることなく夢精できる境地にいたれるか。心の働きを微に入り細に入り徹底的に解読して情欲が紛れ込まないように監視しないといけない。それで、油断するとふと紛れ込んで純潔性を乱しに侵入しようとする心の襞に棲まう情欲の働き、それをカッシアヌスは「リビドー」と呼んだんだ。
 第三章では、キリスト教神学の立役者の聖アウグスティヌスが主に扱われる。アウグスティヌスの問いは、修道僧のような独身者の純潔ではなくて、結婚していて処女・童貞である、とはどういうことかという難易度がさらに高い問いだ。教会組織が発達して信者が増えるということは、結婚して家族が増えていくことだけど、性交が罪深いことだと困ったことになる。それで、冒頭に引用した、アダムとイヴのセックスの話をどう解釈するか、という解釈学的問題となる。アダムとイヴはセックスしていたはずなんだけど、随意的にセックスしていた。つまり、手とか足を自由に動かすようにチ○コも手が種を蒔くように種蒔きができて楽園ではだれも恥辱を感じなかった。つまり粛々と子作りができた。だけど、失楽園の出来事で、チ○コは言うことを聞かない「非意志的」な働きに格下げされた。人間が、自分自身のなかに、非意志的な心の働きを抱えることになったわけさ。それをアウグスティヌスは「リビドー」と名づけたんだ。そのリビドーとうまく付き合って、地上の国でのセックスが神の国のセックスの道を外れないように、夫婦は協力し合ってセックスしなければいけない。セックスはしてもいいんだけど、失楽園以後は、人間は自分自身のなかに「非意志的な力」という分裂を抱えるようになった。それでも「人間」の秩序を維持しているのが一夫一婦制の夫婦という教会の単位のおかげだというわけなのさ。
 平たく言うとそんなことが、もっとずっと、詳しく厳密に書かれている本なのだ。
 で、最後の「リビドー」問題の含意を分かってくれるかな。リビドーをよく解読して管理して合理的に処理していかなければいけないという知のパラダイムが生みだされたということだよね。
 それって、フロイトが考えた理論の先取りだよね。つまり、このフーコーの見立てからいえば、フロイトの精神分析は、19世紀末になってキリスト教の「欲望の解釈学」を逆読みしにやって来たということだよね。そうすると、精神分析という告白の装置とか、性の抑圧とリビドー経済とか、フロイトの理論の下図はすでに5世紀に書かれていたことになるよね。そして、第一巻『知への意志』での問題提起の起源は、この聖アウグスティヌスのリビドーの発見に由来しているということ、『性の歴史』全四巻の「〈欲望人間〉の系譜学」がその円環を完成させて閉じることが分かるね。

 (いしだ・ひでたか 記号学・メディア論)

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