書評

2021年1月号掲載

若き忍者に降臨する、希望としての「共和国」

武内涼『阿修羅草紙』

高橋敏夫

対象書籍名:『阿修羅草紙』
対象著者:武内涼
対象書籍ISBN:978-4-10-101553-8

 不穏な空気がただよう。緊迫した日々がつづく。
 いたるところで渦巻く混乱は、やがて大きな戦乱となり、飢饉や疫病とかさなればこの世に地獄を現出させるにちがいない――武内涼の最新作、「阿修羅草紙」という不吉なタイトルの物語全篇をひたすのは、そうした民の不安と虚無、恐怖と怒りだ。
 時は文正元年(1466)。十一年間つづき京都を焦土と化すとともに、群雄割拠の戦国時代を招きよせた応仁の乱勃発の前年である。室町将軍の権威は衰え、そこかしこに新旧諸勢力の争う乱国(内戦地帯)が生まれていた。
 比叡山延暦寺が抱える忍びの集団、八瀬童子(やせどうじ)の若き忍者すがるは思う。「商業がもたらす未曾有の栄えは、その中にいれば、楽しい今が、永久(とわ)につづくだろうという錯覚を、胸に掻き起こす。(中略)ほんの小さなきっかけで対立と対立が絡み合い――凄まじい噴火を起しかねない」。そして、街にあふれる貧者、病者を見、己とさして歳のかわらぬ数知れぬ立君(街娼)を見ながら思う。「この都は、そのような者たちがたむろする道から、たった一つ堀をへだてた先に――極楽や竜宮のような御殿があるのだった」。「すがるはいつ飢え死にするか知れぬ者を捨て置く政も、静かなる暴力、目に見えない暴力であるように思った」。
 社会の安寧を願う民の危機感と怒りを共有するとともに、醜悪な権力争いにいそしむ諸勢力への不信感をつのらせる。武内涼の忍者ものの特筆すべき基調といってよい。
 武内涼が戦国時代を舞台とした『忍びの森』でデビューしたのは、2011年である。この頃から歴史時代小説ジャンルに登場し脚光をあびる新人たち、たとえば和田竜、天野純希、仁木英之、乾緑郎、澤田瞳子、最近では川越宗一、今村翔吾らは、ブームのつづく「江戸市井もの」と距離をおき、社会が分裂し相争う動乱の時代をステージに、スケールのおおきな物語をえがきはじめる。
 ただしそれは、おなじみの武将たちがおりなす英雄豪傑譚の復活ではない。むしろ「江戸市井もの」で豊かにはぐくまれた無名の人びとの水平的関係の称揚、かけがえのない平和な日々の称揚のためにこそ、動乱の時代における選び直し、積極的選択をはたそうとする。
 おそらくこれは、ながくつづいた「戦後」が、戦争へとむかう新たな「戦前」にのりあげようとするこの時代、この社会の動きとけっして無関係ではあるまい。
 わたしのみるところ、武内涼は、歴史時代小説ジャンルにとどまらず新世代の作家皆に課せられた重い選び直しに、もっとも意識的かつ持続的にかかわってきた。『忍びの森』、『戦都の陰陽師』シリーズ、『秀吉を討て』、『吉野太平記』、『暗殺者、野風』など、司馬遼太郎と山田風太郎の忍者、忍法ものへのリスペクトからはじまり、独自の展開をとげた武内涼の忍者ものがそれである。
『阿修羅草紙』は、武内涼の忍者ものの集大成であるとともに、新たな「戦前」の今につきささり、それを突破して一歩前にふみだす、稀有な希望の物語となった。
 比叡山延暦寺に盗賊が入り、すがるの父で守部だった般若丸(はんにゃまる)らは殺され、阿修羅草紙をふくむ三つの宝が奪われた。阿修羅草紙とは、見た者の心を邪にし、天下に大乱をひきおこす呪われた秘宝。権力者たちの手に渡してはならぬ。伊賀忍者音無(おとなし)らと探索を開始したすがるを嘲笑(あざわら)うかのように何者かが、まず超有力大名山名宗全(やまなそうぜん)に、次は敵対する幕府政所執事の伊勢伊勢守貞親(いせいせのかみさだちか)へと阿修羅草紙を移した。
 すがるたちは、それぞれ宗全を、伊勢守を守る選りすぐりの忍者集団と死闘をくりひろげ辛勝するものの、次つぎに仲間を喪う。技を究めた忍者たちの死闘の結末は物語に暗い、暗すぎる情感をただよわせる。
 しかし、それを深くくぐりぬけたすがるは思うのだった。強さを求め、仲間と戦ってきたが、ついに仲間を守れなかった。自分に足らないのはなにか。「一人の強さは......脆い。違う意見や、異なる知識を持った幾人かの者があつまり、足りないものをおぎない合った時に生れる智恵が、大切なものを守る力になるのではないか」。苦しむ若い忍者に降臨する、希望としての「共和国」だ。そして――。
 そして、阿修羅草紙を使い権力者の抗争を激化させた人物があらわれる。権力と権力者を全否定するために戦争を希求する者と、あくまでも民の平和とその未来を全肯定しつづけるすがるとの迫真の対話と帰結は、武内涼忍者ものの思想的な到達点と読めるだろう。

 (たかはし・としお 文芸評論家/早稲田大学教授)

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