書評・エッセイ

2021年2月号掲載

嫌いこそものの上手なれ

荻堂顕『擬傷の鳥はつかまらない』

荻堂顕

対象書籍名:『擬傷の鳥はつかまらない』
対象著者:荻堂顕
対象書籍ISBN:978-4-10-353821-9

 人一倍「嫌いなもの」が多いと思います。

 たとえば、幼い頃から集団行動が嫌いで、興味もないのに感動の共有を強要されるスポーツも嫌いでした。あとは、「人を値踏みして序列や合否を見せびらかすこと」も嫌いです。他人にランキングを付ける行為や面接、恋愛系のリアリティ番組も嫌いです。他には、味は好きだけど食感が苦手なのでナスが嫌いですし、大きな声で喋る人も嫌いです。

 例外的に動物は無条件で好きでしたが、鳥だけは嫌いです。ゴミを漁っているカラスが見えたら道を変えるくらいに、視界に入れるのも嫌なほど。なので、大学生の頃に久しぶりに帰省した時、家に文鳥がいるのを見て「帰らなければよかった」とまっさきに思いました。鳥には、運動のために籠の外を飛び回らせる時間が必要で、僕にとってはその時間がとても不快でした。そんな僕の気持ちを察しているのか、文鳥は僕には絶対に近付こうとはしませんでした。たまたま近くを飛ばれた時は、つい手の甲で追い払ってしまったこともありました。

 その翌年、また何かの折に帰省した時、ふと、文鳥が僕の指に止まったことがありました。止まる場所を間違えたかのように自然に舞い降りてきて、でも、明確な意思を持ってここにやってきたような、どこか不思議な感触がしました。その時、少しだけ文鳥と目が合いました。どこを見ているのか、何を考えているのかはっきりとしない鳥の目が昔から苦手だったはずなのに、どういうわけか、その時は全く不快に思いませんでした。それからしばらく経って、家族から「あの文鳥が亡くなった」との連絡を受けました。なんとなく、あの子は最後に話がしたかったんじゃないか、という気がしました。何も悪いことはしていないのに、一方的に嫌われたまま去っていくのは悲しい、と。

 それから僕は、鳥について調べるようになりました。図鑑を買い、種類や生態を調べ、鳥を観察するために路上で立ち止まることが増えました。その過程で「擬傷」という言葉を知り、デビュー作である『擬傷の鳥はつかまらない』を書こうと思い立ったのです。擬傷とは、外敵に襲われそうになった時に、親鳥が傷を負って弱っているふりをすることで自分を狙わせ、その隙に子供を逃す行為です。親から子への愛や自己犠牲という見方は正確ではなく、実際は種の保存のための合理的な行動なのですが、僕はこの弱々しい献身に感銘を受けました。そして、「人間にも擬傷はあるのか?」と考えるようになりました。僕たちは他人を逃してあげるために傷を負うことができるのか。他人のために生きることができるのか。正解の存在しない自問自答の先で、ひとつの在り方を提示できたらと思い、今作を書き上げました。

 僕は「理解すること」と「受け容れること」は別物だと考えています。今でも鳥は嫌いですが、近くに来た彼らを追い払おうとは思いませんし、文鳥も全く好きではないけれど、あの子にはもっと優しくしておけばよかったと後悔しています。嫌いなものを無理に好きになる必要はないけれど、排除したり、憎む必要はないはずです。理解はできなくても、受け容れることはできるはずです。少なくとも、そう信じたいと思っています。

 今の世界は僕たちに「好きになること」を要求します。あるいは「嫌いであること」の放棄が正しいと見做されます。否定的な感情は否定され、肯定的な感情が肯定される。僕はその考え自体があまり好きにはなれません。嫌いなものが人一倍多い人間だからこそ、「ポジティブであれ」という空気には与したくないと思ってしまうのです。清らかで明るい「強さ」や「正しさ」の話は他の誰かが書くだろうから、僕は一生懸命なネガティブを書き続けたい。「こんな世界は滅んでしまえ」と思いながらも花に水をやるような、そんな小説を書いていきたいと思っています。

 (おぎどう・あきら 作家)

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