書評

2021年2月号掲載

没後50年 三島由紀夫
Yukio Mishima 1925-1970

34冊! 新潮文庫の三島由紀夫を全部読む[後編]

特別企画 読まず嫌いのライターが挑む難関文豪!?

南陀楼綾繁

対象著者:三島由紀夫

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 『豊饒の海』は最初に読もう

 昨年九月に渋谷の映画館で、ドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介監督)を観た。公開と新型コロナウイルスの拡大が重なったため、全国の映画館はしばらく休館していた。そのため、公開から半年経ったこの時期でも、客席はかなり埋まっていた。客層が六十代以上の男性と二十~三十代の女性に分かれていたのが興味深かった。
 1969年5月13日、東京大学駒場キャンパスの九〇〇番教室で東大全共闘と三島由紀夫の討論会が二時間半にわたって行われた。この映画はTBSの倉庫で発見されたそのときの映像を編集し、その場に立ち会った元全共闘や三島が結成した学生団体「楯の会」会員、マスコミの証言や作家、知識人の評価を加えたものだ。
 三島由紀夫は思想も世代も異なる千人もの東大生を前に誠実に相手の話を聞き、判りやすい言葉で自分の考えを述べた。ときおり、相手に挑発されたり話をそらされたときも、怒りの表情を浮かべてはいなかった。この年に刊行された『討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘 美と共同体と東大闘争』(新潮社)で、三島は「概して私の全共闘訪問は愉快な経験であった」と記した。
 一方、全共闘の論客の三島に対する態度は挑発的で、わざと同じ土俵に立たないずるさがあった。最も長く議論を交わした芥(あくた)正彦をはじめ、学生たちの喋りのスピードのなんと早いことか。頭の回転は速いが、本当に自分の言葉で話しているのだろうかと感じた。

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東大駒場九〇〇番教室の三島由紀夫

 討論の場には、TBSのテレビカメラが入っていたほか、壇上で新潮社の清水寛が写真を撮っていた。三島はカメラの存在を意識し、ときおりポーズをとっていた。そんな姿が、映画館の女性客の好意的な笑いを誘っていた。
 討論を終え、外に出た三島のそばには楯の会の会員が寄り添っていた。その中の一人が森田必勝だった。
 一年半後の11月25日、三島は森田ら四人とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地へと向かった。車の中で、三島は東映の仁侠映画『昭和残侠伝』の主題歌「唐獅子牡丹」を歌いはじめ、四人も一緒に歌ったという。そして、総監室に入った彼らは益田兼利・東部方面総監を人質に取り、自衛隊の決起を呼び掛けたのち、割腹自殺した。森田もそのあとに続いた。
 その日の朝、新潮社の小島喜久江は『豊饒の海』の第四部『天人五衰』の原稿を受け取るために、三島邸を訪れた。十分ほど遅れて到着すると、三島はすでに出かけた後だった。出社してお手伝いさんから渡された原稿を開くと、そこには「最終回」とあった。今回で終了するという予告が事前になかったため、小島は間違いではないかと思ったという(小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』ちくま文庫。小島千加子は小島喜久江の筆名)。

   ※

 吉行淳之介は三島由紀夫の死後、1974年に「スーパースター」と題する「小説というか実話というか随筆というか、自分でも判断のつかないもの」を書いた(『吉行淳之介全集』第十巻、講談社)。
 その中で、「私」=吉行は、三島の「ワッハッハ」という「独特の高笑い」に触れている。
「弱さを隠しているようにも、豪放さを気取っているようにも聞えていたのだが、やがてそれが彼独特のものとして定着してしまった高笑いの声である」
 また、野坂昭如は石原慎太郎との対談で、こう語る。
「三島さんの笑いは豪快だったといわれるけど、目を見ると笑ってやしないんでね。笑いながら、傷ついていたと思う」(「三島由紀夫へのさようなら」『新文芸読本 三島由紀夫』河出書房新社)。
 三島がいつ頃からこの高笑いを身につけたのかは判らない。しかし、多くの人がこの笑いを印象に残しているのは、どこかわざとらしいものを感じたからではないか。
 前回取り上げた、『午後の曳航』『絹と明察』『音楽』など「物語」として面白く読める長編に比べると、私には、『仮面の告白』『禁色』『金閣寺』など、三島自身が色濃く投影されている長編を読むのがしんどかった。
 とくに新潮文庫で六百ページを超える『鏡子の家』は私には退屈だった。裕福な夫を持つ鏡子のサロンに集まる四人の男の運命を同時並行的に描いているのだが、同じような話の繰返しに感じられた。同作は三島の希望で、市川崑監督により大映で映画化されることになったが、実現しなかった(山内由紀人『三島由紀夫、左手に映画』河出書房新社)。『金閣寺』を見事に映画化した市川崑も、この無機質な物語を前に手をこまねいたのではないか。
 三島は、一年半をかけてこの作品に取り組んだ。「私は自分のあらゆるものをこの長篇に投げ込んでしまったので、当分空っぽなまま暮すほかはない」(「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」1959年8月、『三島由紀夫評論全集』第一巻、新潮社。現代かな遣いに改めた。以下同)と述べるほどに。
 しかし、江藤淳、平野謙ら評論家はこの作品を失敗作だと断定した。
 井上隆史は『暴流(ぼる)の人 三島由紀夫』(平凡社)で、大島渚との対談における三島の発言を引用している。
「『鏡子の家』でね、僕そんな事いうと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。(略)その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。(略)それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」(「ファシストか革命か」「映画芸術」1968年1月)
 十年近く経っての発言から、この時の衝撃がいかに深かったかが伝わる。
 私がこれらの作品に親しめないのは、三島の表現したい「思想」に「物語」が従属しているように感じるからだ。
 たとえば、『禁色』では、主人公の南悠一が次のように語る。
「僕は身を挺したい、と時々思うんです。それがどんな佯(いつわ)りの思想のためにでもいいんです。無目的のためにだっていいんです」
 また、『金閣寺』では、主人公の溝口に大学生の柏木が「この世界を変貌させるものは認識だ」と告げる。
「認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。(略)認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
 それに対して、溝口は「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反論する。その言葉通り、彼は金閣に放火する。
 この「行為」が、三島にとって重要な思想であることは確かだろう。しかし、こういった議論の上に組み立てられた物語には、魅力が感じられない。
『仮面の告白』で主人公が「例の『演技』が私の組織の一部と化してしまった」と述べるように、これらの作品での三島の文章はどこか気取っていて、嘘くさい。だから読んでいて息苦しいのだ。
 それだけに、最後に『豊饒の海』四部作に取り掛かったときは、また退屈に耐えることになるのだろうかと憂鬱だった。
 ところが、『春の雪』を読みだすと、たちまち物語に引き込まれた。『奔馬』『暁の寺』と読み進んでも、その面白さは変わらない。気づけば、四冊で千八百ページ近い大長編を四日間で読み終わった。
 他の長編に比べて、この作品が圧倒的に面白いのはなぜだろうか?

   ※

『豊饒の海』は、三島がずっと書きたいと願っていた「全体小説」だった。
 最初から四巻になることが決まっており、次のように構想されていた。
「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、いわば『たわやめぶり』あるいは『和魂(にぎみたま)』の小説、第二巻『奔馬』は激越な行動小説で、『ますらおぶり』あるいは『荒魂(あらみたま)』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾティックな色彩的な心理小説で、いわば『奇魂(くしみたま)』、第四巻(題未定)は、それの書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説で、『幸魂(さきみたま)』へみちびかれゆくもの」(「豊饒の海」について」1969年2月、『三島由紀夫評論全集』第二巻、新潮社)
 三島は同じ文章で、この作品は「どこかで時間がジャンプし、個別の時間が個別の物語を形づくり、しかも全体が大きな円環をなすもの」だとも述べている。それを実現するために用意された仕掛けが、「『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語」(『春の雪』の後註)だった。
 なお、この全体小説を貫く哲学が、仏教における「阿頼耶識(あらやしき)」の思想であり、作中でも何度も解説される。たしかに重要な要素だとは思うが、正直云ってよく判らない。そして、この「阿頼耶識」に関する部分をすっかり読み飛ばしても、この小説は十分に面白いのだ。こんな読み方は邪道だろうか。
『春の雪』は大正初年を舞台に、松枝侯爵の嫡子である清顕と、綾倉伯爵の娘である聡子の恋愛を描く。清顕は幼なじみの聡子を愛しているが、その意思をはっきり伝えないままに、聡子は洞院宮の第三王子・治典王と婚約する。そのことが清顕の心に火を点け、ひそかに聡子と逢瀬を重ねる。聡子は妊娠した子どもを堕胎したのち、奈良の月修寺に入り尼僧となる。
 清顕の友人である本多繁邦は、二人の仲を応援しながら、自分の役に立たなさを痛感する。
「この若さで、彼はただ眺めていた! まるで眺めることが、生れながらの使命のように」
 清顕は本多に夢日記と「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」という言葉を残して、二十歳で死ぬ。この先、本多は清顕が転生した相手を探し、その人物の行く末を見守る人になる。
 第二部『奔馬』の舞台は、1932年(昭和七)。本多は滝の下で、飯沼勲に出会う。勲の脇腹には、清顕と同じ三つの黒子(ほくろ)があり、本多は転生を信じる。勲は1876年(明治九)に熊本で起きた「神風連の乱」にならって、財界人らを暗殺するテロを企てるが、事前に発覚して検挙される。本多は控訴院判事の職を辞して弁護士となり、勲を助けようとする。物語の最後に、勲は「赫奕と昇った」日輪を見る。
 続く第三部『暁の寺』は、1941年(昭和十六)にタイを訪れた本多がタイ王室の王女ジン・ジャン(月光姫)に出会う。彼女は自分が日本人の生まれ変わりだと告げ、清顕や勲に関わる日付を正確に答えてみせる。戦後、成長したジン・ジャンが日本を訪れ、本多の別荘にやって来る。本多は書斎の覗き穴から、彼女が清顕-勲の転生者である証拠を見つけようとする。
 まさに、一巻ごとに時代をジャンプしつつ、大きな円環のなかにあるような物語だ。主人公は転生するが、本多は歳を重ねていく。『奔馬』では純粋に勲を助けようとするが、『暁の寺』では黒子の有無を確認するという名目のもと、四十歳下のジン・ジャンの裸を見るためにわざわざ覗き穴まで設けてしまうほどの醜さを見せる。この覗き穴は『午後の曳航』にも登場する。
 また、『奔馬』の勲の父は『春の雪』で松枝家の書生だった飯沼茂之であり、勲が一方的に維新の旗頭に担ぐ洞院宮は聡子の婚約相手だった。清顕と聡子が密会に使ったのは「軍人下宿の離れ」であり、勲はそこに住む中尉に会うために同じ場所を訪れる。下宿の老主人にとっては清顕と勲は同じ人物である。『暁の寺』では、『春の雪』で聡子のあいびきを手引きした女中の蓼科が「言語を絶した老い」の姿で再登場する。このように、巻が進むにしたがって人間関係が絡み合っていくのも魅力だ。
 清顕と勲はその純粋さのために悲劇的な最期を迎えるが、それだけにかえって、周りの人物たちの俗物ぶりが際立つ。
『春の雪』で、聡子の父・綾倉伯爵は聡子の妊娠を知っても、まったく行動に移そうとしない。
「ただ引延ばすことだ。時の微妙な蜜のしたたりの恵みを受けるのは、あらゆる決断というものにひそむ野卑を受け容れるよりもましだった。どんな重大事でも放置しておけば、その放置しておくことから利害が生れ、誰かがこちらの味方に立つのである。これが伯爵の政治学であった」
 この徹底した「無為」は、初期の短編「魔群の通過」で没落した蕗屋が、「わたしはたとえ殺されても、何もしないでいる権利があるのです」と啖呵を切る場面を彷彿させる。
『奔馬』では、勲に近づき同志になりながら最後に裏切る佐和と、それを後ろで操る勲の父・茂之。『暁の寺』では、タイで本多の通訳となり、その無神経さで本多を苛立たせる菱川。おそらく、三島自身がこのような俗物に悩まされてきた経験があったはずだ。だからこそ、彼らは生き生きと描かれている。

   ※

『春の雪』脱稿から『奔馬』の執筆開始までは約二カ月の間があったが、『奔馬』を書き終えた三島が『暁の寺』の執筆を開始するのはその一週間後だ(年譜より。『決定版 三島由紀夫全集』第四十二巻、新潮社)。三島がこの作品にのめり込んでいるのが判る。
 しかし、三島が『暁の寺』の最終稿を新潮社の小島喜久江に渡したのは1970年2月下旬で、第四巻の『天人五衰』の執筆を開始したと思われる5月まで、三カ月も空いている。
『天人五衰』について三島は、「第三巻までは、素材も構成もきっちりと決めておくが、第四部だけはわざと決めないでおく。その執筆時の現在の時点で、あらゆる風俗流行をそっくり取り入れるようにしたいから」と最初に宣言していたという(『三島由紀夫と檀一雄』)。実際、本作の結末は事前の構想とは大きく変わっている。
 この時期に「波」に連載していた『小説とは何か』で、三島は『暁の寺』を書き終えて、「実に実に実に不快だったのである」と述べた。そして、最終巻に取り掛かる今、「この小説が終わったあとの世界を、私は考えることができない」と書く。
「私の不快はこの怖ろしい予感から生れたものであった。作品外の現実が私を強引に拉致してくれない限り、(そのための準備は十分にしてあるのに)、私はいつかは深い絶望に陥ることであろう」(『三島由紀夫評論全集』第一巻)
 三島は『豊饒の海』について、小島に「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と語ったというが、この時点ですでに決起への決意は固まっていたのだろう。
 そういう緊迫のなかで書かれた『天人五衰』は、異様な美しさと醜さの両方を持つ物語だ。舞台は現代の1970年。七十六歳になった本多は、港湾信号所の信号員の安永透が新たな転生者であると信じ、彼を養子に迎える。しかし東大生になった透は、本多を邪険に扱う。清顕の夢日記を読んだ透は、転生者であることを証明しようと二十歳で死ぬべく毒を飲む。
 本多が透に出会ったのは、友人の慶子を連れて三保の松原を訪れたあとだった。そこでは三島が唾棄したであろう、俗化した風景が描かれる。
「又二軒の茶店が、コカ・コーラの赤い梵字や土産物を満載して、売場の棚をせり出している外れに、顔のところだけ穴をあけた記念撮影用の絵看板が立っていた。色褪せた泥絵具が風情を添えたその絵柄は、松を背にして立っている清水の次郎長とお蝶である」
 いわゆる「顔ハメ看板」を小説に登場させたのは、三島が初めてではないだろうか。しかも、本多は慶子の求めを断り切れず、二人で顔を入れて記念撮影までするのである! もちろん、この顔の穴は、本多の悪癖である覗きとつながっている。
 小島千加子は、三島は『豊饒の海』のために入念に取材しており、「深夜の創作活動以外、他の何物にも堪能することを知らなかったと思えるその実生活の中で、唯一没入することの出来るものが"取材"だったのではないか」と述べる(『三島由紀夫と檀一雄』)。だとしたら、三島も顔ハメを体験してみたのかもしれない。
 この小説は、拠りどころを失った本多が、月修寺に聡子を訪れる場面で終わる。
「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」
 そして、『豊饒の海』の円環は閉じられるのだ。

   ※

『豊饒の海』には、三島がこれまで培ってきた小説の技巧がすべて投入されている。ここでメインのモチーフとなった輪廻転生は、その後の小説、映画、アニメーションなどを先取りしている。また、『禁色』『鏡子の家』などでは、どの登場人物にも三島自身が投影されているために広がりが出にくいが、『豊饒の海』には、多くの俗物たちが登場して、物語をダイナミックに動かす。
 そして何よりも、この作品では三島が追い求めてきた「行為」というテーマが、見事に物語に息づいている。考えてみれば、三島が『仮面の告白』を書いたのは二十四歳。『金閣寺』は三十一歳で書いているのだ。その後、結婚をして家庭を持ち、『鏡子の家』の酷評やノーベル文学賞を逃すという挫折も味わっている。そういった経験を経て、三島の中でやっと「物語」と「思想」が合致したのではないか。
 だから私は、まだ三島由紀夫を読んだことがないという人には、名作と云われる『仮面の告白』や『金閣寺』よりも先に、『豊饒の海』と短編を読むことを薦めたい。そして、『豊饒の海』とセットで語られがちな三島の自決のことは、いったん切り離して読む方がいい。その方が、「物語作家」としての三島由紀夫を堪能できるし、そのあとで『仮面の告白』などを読む方が三島が本来描きたかったものを理解しやすくなる気がする。
 リニューアルした新潮文庫の『仮面の告白』に新たに付された解説で、作家の中村文則は大江健三郎に聞いたというエピソードを紹介している。
「大江さんが三島から料亭に呼び出され向かうと、三島が日本刀を持って待っていたという。(略)そして三島が格好をつけてその刀を鞘から抜いて振り上げた時、天井に刺さって抜けなくなったという」
 中村はそんな三島を「お茶目だ」と評する。私もそう思う。
 もちろん三島本人は大真面目だったし、当時の評論家も読者も三島にお茶目さを求めてはいなかった。それが時代というものだろう。
 でも、三島は心の奥底で、誰かが自分にツッコミを入れてくれるのを待っていたのかもしれない。
 没後五十年を迎えたいま、私たちはもっと自由に三島を楽しんでもいいのではないか。
 三十四冊の新潮文庫を読み終えて、すっかり三島由紀夫のファンになった私は、そう思う。

 (なんだろう・あやしげ ライター/編集者)

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