書評
2021年2月号掲載
だって、人は死ぬのだ。
『今夜、もし僕が死ななければ』(新潮文庫nex)
対象書籍名:『今夜、もし僕が死ななければ』(新潮文庫nex)
対象著者:浅原ナオト
対象書籍ISBN:978-4-10-180210-7
創作者が百人いれば百通りの創作方法があるだろうけれど、僕の場合は作品のタイトルがハマらないと落ち着いて書き進められないという性分を持っている。
タイトルがしっくりこない作品を書いている時は、脚の長さが揃っていない椅子に座っているようで居心地が悪い。デビュー作の『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』や二作目の『御徒町カグヤナイツ』はそのようなことはなかったが、三作目の『#塚森裕太がログアウトしたら』は仮タイトルで執筆を進めていたためどうにも話がまとまらなかった。作品の姿が見えてきたのは全て書き終えた後、「掴みが弱い」という担当編集のアドバイスに従ってプロローグを付け足してから。そして結局、正式タイトルはそのプロローグからフレーズを抜粋して作られることとなった。
逆にタイトルさえ決まってしまえば、そこからイメージを膨らませて一つの作品を仕上げることも出来る。このたび刊行する『今夜、もし僕が死ななければ』はそのパターン。この作品、最初に生まれたのはキャラクターでもストーリーでもなくタイトルなのだ。
発想元は2012年にリビアで起きたアメリカ在外公館襲撃事件で亡くなった外交官が、事件直前にオンラインゲームの仲間に送ったチャットの文章だ。それが、これ。
"Assuming we don't die tonight"
日本語に訳すと「今夜、僕らが死ななければね」と言ったところだろうか。AssumingはIfよりも確率が高い仮定に用いるため、「まあ死なないだろうけど」というニュアンスも含んでいると思われる。
しかし、彼は死んだ。"GUNFIRE(銃声だ)" というメッセージを最後にオフラインとなり、そのまま戻ってくることはなかったらしい。
この話を初めて知った時に自分が抱いた感情を、僕は詳しく覚えていない。ただ「今夜もし死ななければ」というフレーズの強さに殴られたこと、そして誰だって、僕だって、「今夜死なない」保証はないんだよなと思ったことは覚えている。
僕はまだ、そこまで「死」の輪郭が濃く見えるような歳ではない。永遠に生きるつもりだった十代に比べれば死に近づいてはいるし、SNSで伝え聞く「早すぎる死」の中に自分より年下の人間の訃報もチラホラと混ざって来てはいるが、遺書を書いたり遺産の始末を考えたりする段階には入っていない。もし死んだら自分はどうなってしまうのだろうという空想に浸り、恐怖に震えて眠れなくなっていた幼い頃の方が、よほど「死」を現実のものとして捉えていたような気がする。
そんな僕が、もし「死」がもっと身近な環境に置かれたらどうなっていたか。第二次世界大戦中の日本に生まれていたら、黒死病の蔓延する中世ヨーロッパに生まれていたらどうなっていたか。他人の「死」を日常的に見せつけられ、「人は死ぬ生き物である」と意識し続ける人生を歩むことになっていたら、どういう人間になっていたか。そんな疑問から「他人の死を見る能力」が生まれ、能力の持ち主である主人公「新山遥」が生まれ、『今夜、もし僕が死ななければ』という作品に繋がった......ような記憶がある。
余命宣告を受けた人間が人生を見つめ直すように、「死」を意識することは「生」を意識することと同義だ。だから『今夜、もし僕が死ななければ』の主人公である新山遥は、他人の「死」を通して自分の「生」を見つめ、自分の生きる意味に悩む。それは同性愛者である僕が自分の存在意義に悩む心理と似通っており、実際、作中に同性愛者の登場人物を出してオーバーラップさせたりもしている。新山遥の悩みは僕の悩みでもあり、そして少なくない人間が同じ悩みを抱いている(あるいは、抱いていた)ことだろう。
作中で彼がどのような答えを出すのか、ここでは述べない。またそれが唯一無二の正答であるとも、今の僕の考えと一致しているとも言わない。今はただ作中の好きなフレーズを一つ、背景を一切説明せずに紹介したいと思う。このフレーズが作中でどのような使われ方をしているのかは、読んで確かめてみて欲しい。
どうせお前は死ぬんだ。
だから――頑張れ。
"Assuming we don't die tonight" から始まった物語は一冊の本になり、現在、その表紙には "If I don't die tonight" という英題が記載されている。このAssumingからIfへの変化、「まあ死なないだろうけど」というニュアンスの消失を、僕は自然に感じる。だって、人は死ぬのだ。だから僕は、自分の存在意義を確かめるように、今も文章を綴っている。