書評
2021年3月号掲載
昔から、処女であり続けることに価値は全くなかった
酒井順子『処女の道程』
対象書籍名:『処女の道程』
対象著者:酒井順子
対象書籍ISBN:978-4-10-135124-7
酒井順子の新著『処女の道程』は、日本において「処女」なるものがどうとらえられてきたかを、万葉集の時代から現在まで、さまざまな文学作品や論考をもとに探ったものである。昔の女性は夫以外の相手とセックスすることがなく、婚外性交渉は悪いこととされていたが、今は違う......というようなイメージをもやっと持っている人がいる一方、どうもかつての日本の女性は性的に解放されていたが、性道徳をとやかく言うようになったのは西洋の影響らしい......というような、これまた漠然としたイメージを持っている人もいると思う。この作品はそうした曖昧な知識を整理し、歴史の解像度を上げるのに有益な本だ。
本書によると、あまり処女性が重視されていなかったらしい古代から、結婚制度が変わってくる武士の時代、儒教道徳の普及を経て、明治期になると日本の女性を縛る性道徳が激変する。キリスト教道徳の影響や近代国家としての体制強化に伴って処女性崇拝とでも言うべきものに関する活発な議論が見受けられるようになり、第二次世界大戦期には女性の性に対する管理が目立つようになる。戦後にはそれに対する揺り戻しがあり、2000年頃には著者が言う「日本人のセックス意欲の膨張のピーク」(p.208)があった。若者がセックスに積極的なのは当たり前だというような意識が広がったが、その後「セックスバブル崩壊」(p.210)が起こる。日本の若者は以前に比べて性に興味を示さなくなる傾向があり、女性が積極的にセックスすることに対して抵抗や偏見がなくなっている一方、セックスしていないと恥ずかしいとか、若者はセックスして当然だというような同調圧力も薄れてきている。本書は若者の性意識の多様化を指摘する一方、いまだに処女性に異常にこだわる「処女厨」と呼ばれる男性が存在し、その背後に「女性を所有はしたい」が「所有対象から比較や批判はされたくない」(pp.219-220)という心理があるのではないかと分析している。
序盤の古代から近世あたりまでの分析はやや駆け足の印象も受けるが、本書の面白さは46ページ以降、明治から現在までの分析にある。与謝野晶子や平塚らいてうのような著名人の論考から、あまり目に触れる機会のないような雑誌記事、政府やNHKなどによる調査まで、さまざまな資料を用いて日本人の性に関する考え方を辿っている。とくに1980年代以降に関しては資料が豊富であることもあり、性意識の微妙な変化をきめ細かく描き出している。
本書を読んで思うのは、「処女性の重視」というのは実は大いなる嘘っぱちであり、日本史上(そしておそらく世界史上においても)、処女であり続けることが重視された時代など一度もなかった、ということだ。結婚前に処女であることがあまり重視されていなかったような時代のみならず、若い女性の処女性が尊ばれる時代においてさえ、女性は常にどこかで結婚して処女ではなくなり、子供を産むことが求められていた。死ぬまで処女というのは想定外なのだ。本書では、第二次世界大戦の時期に「永遠の処女」である原節子のような女性像がもてはやされる一方、「できるだけ早く処女から卒業しろ」(p.128)という圧力が女性にかけられていたことが指摘されている。産めよ殖やせよが国策であった戦時中はもちろん、ずっと処女であり続ける女性というのは常に社会にとって厄介者だった。この点では、男性との結婚は女性にとって自らを犠牲にすることで、セックス全てが恥ずべき行いだと考え、清くあるためには人類滅亡すら厭わないと1936年に宣言していた「純潔原理主義者」(p.115)である吉屋信子は大変過激だ。おそらく同性愛者だったと考えられている吉屋信子の反セックス思想は一見、世間の処女性崇拝に同調しているようだが、実は社会通念に真っ向から反逆している。本作の最後に出てくる作家はセックスを異化して描くのが得意な村田沙耶香だが、吉屋はそれを先取りしていたと言えるかもしれない。
本書は性意識の変遷に関する見取り図を把握するのに最適の著作だ。さらに時代ごとの細かい分析を知りたい読者は、是非本書で言及されている学術書も手に取ってほしい。アンケ・ベルナウ『処女の文化史』(夏目幸子訳 新潮選書 2008)や澁谷知美『日本の童貞』(河出文庫 2015)などを併せて読むとさらに楽しめるだろう。
(きたむら・さえ 武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授)