書評・エッセイ

2021年3月号掲載

間違う人を書くということ

『草原のサーカス』

彩瀬まる

「大きく揺れる」をテーマにした最新作の執筆中に、世界全体が重大な変化を迎えることに。
うつろう世で過ちを犯す人間を書く真意とは……。

対象書籍名:『草原のサーカス』
対象著者:彩瀬まる
対象書籍ISBN:978-4-10-331964-1

 もう数年前のことですが、編集さんと打合せをしていた時に、人生の目標をどこに置いて達成していくかとか、どんな心持ちで老いるかという話題になったんです。私は歳を重ねて経験を積む中で、執着を手放していく姿をイメージしていたのですが、連載の担当者から「そんなの寂しい! 周りから色々なものがなくなってしまうということですよね」と言われてハッとして。皆が持っている、人生とはこういうものだという感覚は、一つではないんだなと。担当さんとは少し年齢差があったので、個人の資質だけではなく、育った時の社会情勢も人生観に影響を与えるのかもしれないと思いました。だとすると、自由意思って何なのだろう、と気になり始めて。
 時間的な幅を持った物語の中で、社会情勢を大きく動かした場合、もしかすると視点人物の人生観や固定観念も変わるかもしれない。そうなった時、本人はどこに自分らしさを見出すのか。そんな風に価値観が大きく揺れる話を書いてみよう、と打合せの場で決まりました。
 当時、国会で政治家が「記憶にございません」と答弁する姿が繰り返し報道されていて、「本当にやっていないのであれば、もっと詳しく説明すればいいのに。真相を明らかにしてほしい」とぼんやり思っていました。でも、組織の上の人から指示を受けてやったのだとすれば、それを明かすと、その先の人生の保証がなくなってしまうのかもしれないですよね。私は無邪気に社会正義を果たしてほしいと思ったけれど、それ自体がもしかして地に足がついていないものだったのかなと考えたり。あと、出版社の炎上問題が立て続けに起きて、組織と個人が乖離していく様子も目の当たりにしました。身近な存在である出版社で何が起こっているのかを聞いて、組織内で生きる難しさをより実感を持って考えさせられた気がします。
 それで、所属している集団に対して執着心や依存心を強く持っていた結果、抜き差しならない状況に陥る人を書こうと思い始めました。だったら対照的な視点人物を二人置いてみたら面白いかなと。片方は組織の中で選択肢の少ない状況に置かれる人物、もう片方は組織には縛られず、社会正義を信じて疑わない人物にしようとイメージを膨らませていきました。
 組織の中で生まれた事件を色々調べていく中で、ディオバン事件について知りました。簡単に言うと、製薬会社の社員が身元を隠して、自社の利益に繋がる論文の不正に関わっていたという事件ですが、問題の構造が分かりやすく、考えていた設定にもはまるので一部をモデルにすることにしたんです。
 資料を読むだけではなく、裁判所にも取材に行ったのですが、誰かの人生を大きく左右する裁判がこの建物で毎日処理をされているのだと圧倒されました。人生の捉えどころのなさに比べてシステムって明確ですごいなと。私が普段書いている個人の人生の話はとてもミクロなものですが、それを束ねるマクロ的なものという意味でシステムって面白いですよね。ちなみに、主人公の一人である依千佳(いちか)は、司法のシステムの狭間で思いがけない境遇に陥るので、勿論システムも万能ではありませんが......。
 私が書いてきた話の中でも、ここまで時代性を織り込んだのは初めてなので、特異な作品になったのではないかと思っています。デビューしてから間もない初期は、時代や社会問題をどんな風に扱っていいのか分からなかったし、時間が経つと古くなってしまうのではと心配していたのですが、今はそこから切り離された作品なんてないのではないかと吹っ切れた部分もあって。今回は連載終了後、単行本化のために改稿している間にコロナの感染が広がり、物語を現実に寄せないと読者の日常からかけ離れたものになってしまうと焦りました。
 その後の改稿で作中にも、コロナとは別のウィルスによるものですが、感染症の拡大で社会が混乱する描写を入れました。本作は、登場人物の多くが大変な目に遭います。何でこんな暗い話ばかり書いているのかと自分で苦笑することもありますが、失敗しても人生は終わらないということを書いておきたかったのだと思います。きっと私自身が間違えても生きていかなきゃいけないと思ってるんですよね。間違いを犯したとしても、私も頑張って生きていくから、あなたも生きていってね、と誰かに言いたいのかもしれません。
 (談)

 (あやせ・まる 作家)

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