書評・エッセイ

2021年3月号掲載

城山三郎、NHK大河ドラマ「青天を衝け」主人公 渋沢栄一を語る

人は、その性格に合った事件にしか出会わない(抄)
――『少しだけ、無理をして生きる』より

城山三郎

対象書籍名:『少しだけ、無理をして生きる』
対象著者:城山三郎
対象書籍ISBN:978-4-10-113337-9

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img_202103_10_2.jpg 受信しつづけ、吸収してやまない人ということでは、渋沢栄一の名前を逸することはできません。渋沢は、御木本幸吉がずっと意識していた大先達です。御木本は、渋沢が九十過ぎまで長寿を保ったというので、自分も長生きすれば少しでも渋沢に追いつけるかもしれないと願い、実際に九十六まで生きることになります。
 私は『雄気堂々』という小説で、渋沢のことを書きました。彼は日本最大の経済人になり、近代日本の指導者の一人になるのですが、埼玉県深谷の山奥に住むお百姓の子供として生まれました。あの時代では、まったく出世できるはずのない生い立ちです。明治時代の立身出世コースというのは、薩長土肥、つまり薩摩、長州、土佐、肥前の出身者、それも侍あがりで固められていましたが、そういう生まれではない。何でもない埼玉の外れの、比較的豊かな家とはいえ、百姓の息子が、なぜ日本最大の経済人になったかということを『雄気堂々』では書きたかったのです。
 今でも深谷というのは何もないところですね。深谷ネギというネギで有名ですが、つまりネギしかないようなところ。私も取材に行きましたが、その小さな田舎の町に急行が止まる。これは有名な話で、地元出身の荒船清十郎運輸大臣が強引に急行を止めたんですね。まあ取材に訪ねるためには便利でしたが、ほとんど降りる客のいない駅です。渋沢はそんな田舎から出てきて、日本最大の経済人になった。その後もあれほど大きな経済人は出ていませんし、単に経済人というだけでなく、近代日本の代表的な指導者になった。これはなぜかというと、渋沢栄一の〈受信機能〉の良さのせいではないかと私は思っています。
 彼の一族である渋沢雅英(まさひで)という人が書いた本によると、渋沢さんは晩年に至るまで、いつも自分の目の前にいる人に心のすべてを傾けて応対した、というのです。どんな時でも、どんな人に対しても同じ態度だった。
 晩年の渋沢さんは日本の元老的な存在になっていて、総理大臣でも姿勢を低くして会いに行くような人物でした。ところが当の渋沢さんはどんな時でも、会う人に対して、例えば就職を頼みに来る学生、あるいは社会運動の募金を頼みに来る小母さん、何でもない用で来た人、どういう人に対しても、「この学生は何だ、自分みたいに偉い、忙しい人間の時間を取って。早く帰らないか。次の会議が待っている」などということは考えない。自分の目の前に座った人に対して、心のすべてを傾けて応対する。それを彼は生涯貫いた。これはつまり、全身が受信機の塊だったわけです。このことが、何でもない農村の一少年を日本最大の経済人にした大きな秘密でした。
 やはり晩年のことですが、アメリカが反日運動を展開した時期があります。移民も制限されました。そこで、渋沢が日本の使節としてアメリカへ行くことになった。だいたい、現在に至るまで日本の使節は向こうへ行ったところで、日本と仲のいい人物にしか会ってきません。これは実はあまり意味がない。渋沢は、いちばん日本を嫌っている排日運動のリーダーに会いに行ったのです。当然のことながら最初、向こうはまるで相手にしてくれないのですが、再三再四頼んで、やっと排日運動のリーダーが時間を割いて会ってくれることになった。
 ところが、会って話しているうちに、向こうのリーダーはすっかり渋沢のとりこになってしまった。時間も忘れて延々と渋沢と話し合い、しかも別れ際には別れを惜しんで、「渋沢さん、あなたの写真を私にください」と言うのです。そして、「写真にサインをしてください」とまで頼む。つまりもうファンがスターにねだるのと同じ、そういう関係になってしまう。渋沢の魅力にやられたのですね。
 渋沢は何か手土産を持って行ったわけではないし、おいしい話をしに行ったわけでもない。しかし彼の、目の前にいる人に心のすべてを傾けて応対するという態度、それが言語も違い、立場も違う人の心を溶かしてしまった。渋沢のとりこにまでしてしまった。そんな魅力を持った人でした。渋沢にはこの類(たぐ)いの話はいくつもあります。こういう生き方で、彼は大きくなっていくのです。
 私たちが、「どうして自分は、こういう人間になったのだろう?」「なぜあの人は、ああいう人生になったのだろう?」などと考える場合、それまでに出会ってきた環境とか事件とかのせいにしたがりますね。貧しい家に生まれて、両親が反目していて、学校の教師もまるで理解がなかったから、こういう非行少年ができたんだとか、ついそんな解釈をしてしまう。しかし、それは本当でしょうか。
 文芸評論家の小林秀雄さんがどこかに書いておられたことですが、「人は、その性格に合った事件にしか出会わない」のです。「こんな女に誰がした」と言うように、こういう事件があったから私はこんな女になったんだと普通の人は考える。小林さんは、そうじゃないんだと言う。こんな女だから、こういう事件に出会うのだ。小林さん流の逆説でありますが、けれど、これは人生の真理じゃないか。
 実にウジウジした湿っぽい陰気な性格だから、何か事件に出会うと、それをいつまでもウジウジと気に病んでしまう。だから、それがいつまでも心に影を落として、陰気な人生を作ってしまう。カラッとした性格だったら、事件が起きてもパッと通り越して、何もあとに残さない、事件があったことすら忘れる――これが人生の真実ですね。事件が性格を作るんじゃない。性格が事件に遭遇させてしまう。
 この真実を、きわめて劇的な形で見せてくれたのが、渋沢栄一と、そのいとこの喜作の二人です。いとこ同士ですから血は近い。そして、同じところで育ちましたし、歳もほとんど同じです。そういう二人の人生が、性格の違いによって、大きく変わっていく。
 二人は、昔の地名でいうと武州血洗島村手計(ちあらいじまむらてばか)という土地の生まれです。利根川が流れていて、その向こうはもう上州になります。いわゆる〈出入り〉の激しい、切った張ったの多い土地でした。川の中の小さな島で、斬(き)りとった血まみれの生首を洗うから、血洗島村。そして手計というのは、斬り合いで落ちた手ばかりが流れ着いたというのです。そんな地名がつくくらいの、かなり気性の荒い土地。そして渋沢たち二人も気性が荒いというか、血が熱い男でした。その点は、二人とも非常によく似ていた。
 二人が育ったのは幕末です。幕府が腐敗して、彼らの血洗島は代官が治めていたのですが、代官も腐敗していて仕方がないから、代官を倒そう、幕府を倒そうと、若い農民の彼らが決起して討幕運動を起こそうとします。武器を集めて近くの代官所を襲い、さらに横浜を急襲して、居留している外人たちを皆殺しにしようという計画を立てた。二人が首謀者です。ここまでは、二人は同じ人生を歩いている。
 ところが、実際に行動に移す寸前に、計画が発覚しかけ、また、そんな行動を起こしてもダメだということがわかるのです。京都から尾高長七郎という仲間――渋沢の奥さんのお兄さん――が帰ってきて、彼の話によって、時代はそんなことでは追いつかないくらい激動していることを教えられ、仲間内には強行する意見もあったのですが、渋沢の判断によって計画を取りやめました。つまり、新しい情報に対して鋭く反応を示した。彼の吸収力、受信性能はこの頃からいいのですね。
 自分はこのやり方しかないと思い込んでいたけれども、ダメなのか、と計画を中止しますが、その時にはもう代官所から手が回っていて、二人は追われて逃げることになります。
 彼らは命からがら京都まで逃げます。幕吏はなお京都まで追っかけてくる。捕まったら殺されますから、とうとう行き場がなくなった二人の青年は、伝手(つて)を辿りにたどって、当時京都に駐在していた一橋家――ちょうど一橋慶喜(よしのぶ)が水戸から入洛していたのです――に逃げ込みます。一橋家は幕府の親類ですから、そこへ逃げ込めば助かるかもしれない。ここまでは、二人一緒に逃げ込みました。ここから違ってくるんです。二人の置かれた状況は同じですが、二人の性格が違う。二人の生き方の積み重ねが違ってくる。
 渋沢のほうは、さっき言いましたように、吸収していきます。とにかく勉強しようとする。犯罪者として追われ追われて犬ころみたいに逃げ込んだ家ですから、明日にでもまた犬ころみたいに放り出されるかもしれない、なんてことは考えないで、一橋家に逃げ込んでしまったら、一体この家は何だろう、と勉強していくのです。一体何で食っているのだろう、兵力はどうなっているか、賄(まかな)いはどうなってるか、そんなことをずっと勉強する。
 私は、渋沢のこういう性格を〈吸収魔〉と呼んでいます。普通の人間はしませんよね。明日にでも追い出されるかもしれない野良犬同然の自分の境遇を考えると、勉強なんかしないのが普通の人間です。しかし、渋沢はそんな考え方はしない。とにかく今自分がここに置かれた以上、その周りのすべてを知り尽くそうとする。
 そうやって勉強して吸収していくと、当然ながら、ここはちょっとおかしいじゃないか、ってところが出てきます。自分だったらこうしたい、こうすべきじゃないかという意見が生まれてくる。それを今度は、書くのです。建白する。今の言葉で言えば、提案する、企画する。そして、上役に出す。〈建白魔〉と言っていいぐらい、渋沢は建白してやまないのです。
 その建白書には詳しいデータをつけています。裏付けになる資料をつけて出している。冷静に考えるまでもなく、彼にはそんなことをする資格は全然ないんですよ。一橋家の足軽ですらないのですから。逃げ込んだ野良犬同然の身ですからね。そんな立場の人間は、こんなこと書いたら笑われる、叱られる、怒鳴られる、もちろん破り捨てられる、追い出されかねない、そういうふうに考えて、誰もやらない。渋沢はそれをやるんです。〈魔〉なんですね。取り憑かれたように勉強し、取り憑かれたように提案してやまないんです。
 提案書を、例えば足軽頭に出します。足軽頭はそんな百姓の倅を雇った覚えは全然ないのですから、当然「なんだ」と破ってしまう。また書きます。また破ってしまう。また書く。破ってしまう。ところが、渋沢はやめないんです。〈魔〉ですからね、くじけない。また書きます。そうすると、現在のダイレクトメールも似たところがあるかもしれませんが、見ないで捨てていたのに、あまりにも何回も来ると、一体何だろうと思ってつい見てしまう。で、見てみると、足軽頭は「これは有益なことを言っている」と感心してしまって、恐る恐る、もう一つ上の人間に持っていく。
 もう一つ上の人は、やはり渋沢を知りませんから、「なんだ」ってまた見ないで捨ててしまう。ここでも何回も繰り返す。だから、いちばん上まで行くのに建白書を一体何十通、何百通書いたかしれません。つまりこれは、書いて何かをしよう、認められよう、なんてことじゃないんですね。渋沢はとにかくもう、書かなくてはいけない、書きたい、という気持ちに動かされているだけなんです。自分が正しいと思ったことを言いたい、というだけ。
 それがついに、上の上のずっと上まで上がっていって、一橋家の主君である一橋慶喜が読むことになります。一橋慶喜は名君ですから、渋沢なにがしを全く知らないけれども、非常にいいことを言っているじゃないか、この提案をやらせろ、となった。身分も何もない男ですが、資格を与えてやらせてみた。そうして、渋沢は立派にやってのけていくのです。彼はただ思いつきを提案したのではない。裏付けになる資料をつけて出しているくらいだから、十分実現できるプランを建白しているわけです。だから、やれと言われたらみごとにやってのけることができ、そこから彼の道が開けていきます。
 ところが、いとこの喜作のほうはどうしたか。喜作は勉強が嫌いなのです。嫌いな代わりに血気盛んな男らしく、剣道の稽古に明け暮れていました。だいたい侍になりたかった男で、それがたまたま武家の家に逃げ込んだわけですから、待ってましたとばかりに撃剣の稽古に打ち込みます。夢中になって剣の腕を上げていく。
 ここで二人の人生が、大きく変わっていきます。彼らは彼らそれぞれの性格に合った事件にしか出会わなくなっていく。
 どういうことかといいますと、渋沢は勉強をし、吸収をし、提案をし、それを実にみごとにやってのけた。もう一つ、渋沢の大きな魅力は、人を結びつけてやまない点です。先に触れたように、人の言うことを実に辛抱強く、心をこめて聞く男です。そうすると、聞いてもらった人は渋沢を徳とします。「あの人は本当に自分のことをよく聞いてくれた」と、渋沢に惹かれます。その結果、渋沢は〈結合魔〉――人と人とを結び合わせる名人――と言っていいぐらい、人を結びつけてやまない能力を持つようになります。
 そんな生活を送っているうちに、一橋慶喜が十五代将軍になりました。渋沢は幕府が嫌いで、命をかけて討幕を狙っていた田舎の無名の一青年でした。そのせいで逃亡生活を送る羽目になっている。それなのに、自分が勤めている家の主人があろうことか、将軍になってしまった。彼は大変なショックを受けます。この時点まで、渋沢は、慶喜をおしたてて討幕の軍を起こすことを夢見ていました。それがいまや、幕府を倒すということは、自分を助けてくれた慶喜を倒すこと、殺すことになってしまう。これにはショックを受け、スランプに陥るのです。生きがいがなくなってしまった。
 ちょうどその時、パリで万国博覧会が開かれ、初めて日本国の代表が派遣されることになりました。代表として将軍慶喜の弟で、まだ十五歳の清水昭武が選ばれた。のちに最後の水戸藩主になる人です。
 当然、水戸家から侍たちが随行します。ところが、水戸家の侍というのは、〈尊王攘夷〉のイデオロギーに凝り固まった、外国嫌いの連中ばかりです。そして、これは日本国の正式の代表ですから、当時の外務省にあたる幕府の外国奉行の一行も同行する。幕府は〈開国佐幕〉で、外国と仲良くやりましょうというグループですね。まったく犬猿の間柄である二つのグループが自分のまだ幼い弟の供をしてパリへ行くというので、慶喜は心配になりました。どうにかして、この二つのグループを喧嘩させずに連れていけないか。
 その時に思い当ったのが、渋沢です。あれは実に辛抱強く人の言うことを聞く男だから、あいつなら二つのグループをうまくまとめてくれるだろう。そこで、渋沢は水戸家の侍でもないし、幕府の外国奉行でもない、資格もないのに登用されて、パリへ行けと命じられた。
 彼はパリがどこにあるかなんて、全然知りません。フランスがどこにあるかも知らない。横浜の外人を襲おうとしたくらいですから、かつては攘夷のほうでしたが、スランプに陥っていた彼は、日本にいるよりは気が紛れるだろうと、パリへ発っていきます。彼は旅立ってよかったのです。その直後、慶喜は大政奉還をしますが、薩長両藩の討幕の意志は固く、鳥羽伏見の戦いが起こりました。渋沢が日本に残っていたら、鳥羽伏見から始まる戊辰の激戦の中に巻き込まれていったでしょう。彼は慶喜の親衛隊みたいなものでしたから、最前線に立たざるをえない。
 そして喜作のほうは、剣の腕を磨きに磨いていたところへ戦争が起こったのですから、喜び勇んで戦線へ飛び出していきました。彼は剣の腕が買われて、幕府の陸軍奉行支配調役にまでなっています。喜作が鳥羽伏見で奮闘し、江戸へ帰ってくると、旗本たちはしゅんとして完全に意気消沈していました。旗本八万騎なんて威張っていたくせに、みんなたちまち日和見主義になり、縮こまって何もやらない。なぜ戦わないんだ、と彼が声をかけて集めたのが彰義隊です。上野の山に立てこもった彰義隊は、そもそもは喜作が作った。江戸の旗本八万騎が作ったのではなく、まるで関係のない埼玉の農民の息子が作ったのです。喜作が頭取となって、彰義隊を動かした。
 そのうちに、旗本たちが面白くなくなってくる。なんで、あんなやつが彰義隊の頭取をやってるんだと、クーデターを起こして喜作を追い落とします。追い落とされてもなお、喜作は戦いたい。彼は仲間と郷里に近い飯能(はんのう)という山に立てこもって、そこで農民兵も集めて、何万という官軍を迎え撃ちます。まあ、勝負にならないわけですがそれでも戦い抜く。激しい戦闘をしています。
 当時のしきたりとして、侍が海外へ行くなど長期間留守をする場合には、自分の身代わりを殿様に仕えさせました。見立養子といいますが、もしもの時に、家名断絶にならないようにするためです。そのため渋沢栄一はパリへ行く時に、彼にはまだ子供がいませんでしたから、奥さんの弟の平九郎という義弟、二十歳になるやならずの大変な美剣士ですが、彼を見立養子にして将軍慶喜に仕えさせていました。
 その平九郎も鳥羽伏見で戦い、彰義隊に入り、喜作と共に追い落とされて、飯能で立てこもって戦って、そこで命を落とします。剣の腕は立ったのですが、多勢に無勢で、彼一人で三十人ほどの官軍を相手にし、とうとう自刃したのです。もし渋沢栄一が日本に残っていたら、彼だって飯能の山奥で、まだ二十代で命を落としていたかもしれない。ところが、彼は幸い、パリにいた。戦争のことは遅れて知ります。
 しかし、これは〈幸い〉という言葉では言いきれないのですね。彼の生き方の積み重ねが、そういう人生を作っていったのです。決してこれは、宝くじを引いたら当たった、幸運だった、というような問題ではない。渋沢の吸収してやまない、建白してやまない、人を結びつけてやまない、そういう性格が、渋沢を〈パリ行き〉という事件と出会わせたのです。
 一方、喜作は喜作で、とにかく撃剣が好きで、剣を練ることだけやってきた彼にふさわしい事件と出会った。喜作も飯能で大怪我をしながら、東北を転戦し、命からがら五稜郭まで辿りついて、そこでも戦い続けます。よく似ていたいとこ同士が、性格の違いから、まったく違う人生を歩んでいく。
 ところで、パリの渋沢栄一は、何をしていたのでしょう?
 
 パリで、そして明治になった日本で、渋沢栄一はどんな活躍をしていくのか――。続きは城山三郎『少しだけ、無理をして生きる』(「2 人は、その性格に合った事件にしか出会わない」/新潮文庫)でお読み下さい。同書は渋沢以外にも、広田弘毅、浜口雄幸など、城山氏が小説に描いてきた男たちの気骨ある生き方を伝える名講演録です。

 (しろやま・さぶろう)

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