書評・エッセイ

2021年4月号掲載

朝井リョウ『正欲』刊行記念特集

それでもなお、この言葉を

西加奈子

対象書籍名:『正欲』
対象著者:朝井リョウ
対象書籍ISBN:978-4-10-333063-9

 タイトルを見た時から、嫌な予感はしていた。「正」しさと「欲」望、相反する言葉のはずなのに、どこかで納得してしまった自分は、もうきっと、色々気づいているのだろうな、と思った。気づいているのに、見ないふりをしているのだろうと。
 嫌な予感は、物語が始まってたった数ページで的中する。「多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています」。「想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです」。この時点で私はもう、これ以上読みたくないと思う。でもこの小説は、安易な逃亡を許さない。
 寺井啓喜(てらい・ひろき)、桐生夏月(きりゅう・なつき)、神戸八重子(かんべ・やえこ)、という三人が、視点を変えて登場する。啓喜は登校拒否児童を子に持つ検事で、夏月は地元のモールにある寝具店で働き、八重子は学園祭の実行委員を務める大学生だ。彼らは一見何の関わりもない人物に見える。でも、啓喜の息子である泰希(たいき)が、同じように登校拒否児童である友人とYouTubeで動画配信を始めるところから、細く、不穏な糸で繋がり始める。
 泰希たちの配信動画は、小学生らしく無邪気で、取るに足らない。だが、コメント欄を開放していたことで、様相が変わってくる。水中息止め対決を、罰ゲームに電気あんまを、などという、自身のフェティシズムを満たしたい大人たちからの「リクエスト」が連投されるようになるのだ。泰希たちも、彼の親である啓喜も、その真意には気づかない。「文面があまりにも欲望そのまま」なものもあるのに、それに気づくのは、それに気づく人間だけなのだ。夏月のように。彼女はある理由から、この動画を憑かれたように見ている。
 後半は、新たに視点が加わる。夏月のかつての同級生であり、夏月と何らかの秘密を共有している佐々木佳道(ささき・よしみち)。八重子が思いを寄せる、ダンスサークル所属の美しい大学生、諸橋大也(もろはし・だいや)。彼らは、物語冒頭で、ネットニュースの記事になっている。児童ポルノ摘発で逮捕された「小児性愛者」たちとして。だが、大也は黙秘を貫き、佳道は否定している。
 彼らの欲望は何なのか。そしてその欲望は、この世界で受け入れられる欲望なのか。作中、ある人物がこう言う。
「何でお前らは常に自分が誰かを受け入れる側っていう前提なんだよ。お前らの言う理解って結局、我々まとも側の文脈に入れ込める程度の異物か確かめさせてねってことだろ」

 私は、美しい言葉が好きだ。そのうちの一つが「多様性」だった。全ての多様性を肯定したいと思ったし、全ての多様性を肯定すべきだ、と考えていた。けれど、この小説に水を差された。
 誰かが「水を差された」と思う時、その人が守ろうとしていたものは何なのだろうか。
 例えば、「皆で五輪を盛り上げようとしているときに水を差すなよ」と言う人たちがいたとして、彼らは、何を奪われたと思うのだろう。
 それは、高揚なのではないだろうか。「多様性」という言葉を使う時、私はどこかで、気持ち良さを感じていたのではないのか。
 もちろん、法律的にも倫理的にも許されないことは、絶対に許してはならない。関係性が非対称である欲望も許してはならないと思う。でも、法律的に許されていて、誰も傷つけないものであるはずなのに、それでもなお理解できない、受け入れられない欲望が、私にはある。想像できないものも含め、きっといくつもある。そしてその欲望を持つ人たち全てが、望んでそれを手にしたわけではない。それを私は、分かっていたはずだった。つまり、その全てが多様であって、その全てで多様であることを。
 それでもなお、気持ち良さを感じていた私は、きっと色々なことから目を逸らしてきたのだ。その上で、自分は何故かいつも「受け入れる側」「肯定したいと思う側」で、しかも「異物」として社会で暮らす人たちがいつも「受け入れられたい」「肯定されたい」と願っているのだと信じていた。それは特権と呼ばれること以上の、おぞましいと言っていい何かなのではないか。
 私は今も、「多様性」という言葉が好きだ。でも、それを言葉にするときの気持ち良さは、永遠に去った。この小説に奪われた。それでもなお、多様性は大切だと思う。しつこく思う。これからは、痛みと苦しみ、そしておぞましさを伴うものとして、この言葉を大切にしてゆきたい。

 (にし・かなこ 作家)

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