書評

2021年4月号掲載

『沙林 偽りの王国』刊行記念特集

オウム真理教犯罪の闇

帚木蓬生

主人公は毒物学の権威、作者は精神科医。
医師の視点から「オウム真理教」犯罪の全貌を描いた今作をめぐり、未解決事件の「謎」についての著者エッセイをお届けします。

対象書籍名:『沙林 偽りの王国』
対象著者:帚木蓬生
対象書籍ISBN:978-4-10-118830-0/978-4-10-118831-7

 オウム真理教による犯罪の全容は、拙書で書き尽くしています。しかし今以て未解決の犯罪は、1995年3月20日の地下鉄サリン事件の十日後に起きた国松孝次警察庁長官狙撃事件と、ひと月後に生じた村井秀夫刺殺事件です。
 前者は長官が居住しているマンションの通用口で発生し、後者はオウム真理教東京総本部前で実行されました。いずれも周到に計画された犯行です。狙撃者は逃亡後、煙のように闇に消え、逮捕された刺客は暴力団員だったものの、その背後は闇に包まれたままです。ある意味でこの二つの闇こそが、オウム真理教の犯罪の核心だと私には思えます。
 もちろん、この犯行を指揮した人物は、教祖以外に考えられません。その解決の糸は、2018年7月の、教祖以下幹部十三名の死刑執行によって断たれました。
 しかしこの二つの犯罪が、教祖の頭ひとつで考案されたとは到底思えません。教祖の周辺に存在した、頭脳集団つまり法皇官房が演じた役割が、大きかったのではないかという推測が成り立ちます。二つの犯罪のみならず、一連の犯罪にも法皇官房は関与したのではないでしょうか。
 この頭脳集団の筆頭は、東大医学部に在籍していた石川公一で、実行犯ではないため、何の罪にも問われず、後に変名で九州大学医学部を受験して合格、背後関係が暴かれて教授会の反対で合格取消しになっています。教祖の側近にあったこの人物が終始、犯罪の埒外にあったはずはなく、今日でも闇を抱いたまま、苦悶の日々を送っているのではないでしょうか。
 他方、教団内外で演じた役柄が大きかった割には、比較的軽微な罪ですんだ人物が二人います。ひとりは、「ああ言えば上祐」と揶揄された外報部長、後の"緊急対策本部長"の上祐史浩です。この上祐があることないことの嘘八百を、マスメディアの前で滔々とまくしたてている姿は、年配の人なら記憶にも新しいはずです。
 村井秀夫が刺殺されたとき、すぐ近くにいて、何か言おうとしていた瀕死の男の口を塞いだのが、饒舌な上祐でした。こうして村井秀夫の最期の言葉は永遠に封印されたのです。この刺殺の背後に潜む闇を知悉しているのは、懲役三年の実刑を受けたあと、現在もなお観察処分下にある後継教団"ひかりの輪"代表たる当人でしょう。
 残るひとりは、"法務省大臣"だった弁護士の青山吉伸です。京都大学在学中二十一歳の最年少で司法試験に合格した頭脳を使い、教団の行動に楯突く動きに対して、訴訟を乱発しました。法律の悪用に関しては獅子奮迅の働きをし、忙しさの余り裁判をすっぽかすのは度々でした。審理が長引けば長引くほど、事態は動かず、教団には有利だったのです。
 しかしこの裁判の連発に怖気づいた最たる組織は、警察でした。現在でも捜査に対しては腰が重く、大方の犯罪の芽には眼を背ける悪癖を身につけています。ましてや相手は宗教法人ですから、下手をすると火中の栗を拾う結果になります。しかも犯罪の場は全国に散らばり、警視庁を含めて各県警は、連携を欠くという致命的な欠陥のため、単独で対処する他なかったのです。慎重すぎて後手後手に回った捜査は、後世に禍根を残しました。
 拙書の題名にある「偽りの王国」は、当時のそうした警察組織をも暗喩しています。その王国が、現状もなお続いていないことを願うばかりです。
 さらにまたこの「偽りの王国」は、当時のマスメディアにもあてはまります。地下鉄サリン事件の九ヵ月前、1994年6月27日に長野県松本市で起きた松本サリン事件の直後、全く見当違いの捜査をした長野県警の尻馬に乗ったのが、信濃毎日新聞以下の新聞各紙です。第一通報者の河野義行氏を犯人とみなして、あたかも県警の広報紙に成り下がりました。重態の妻を看病しながら、冤罪に喘がなければならなかった河野氏の辛酸は、想像を絶します。
 事態を批判的に論じなければならないはずのメディアで、視聴率を稼ぐために、教祖や上祐、その他の幹部を幾度となく画面に登場させたのは、テレビ各局でした。この露出によって教団が力を増した事実は否めず、今から見れば、このとき王国としてのメディアの化けの皮がはがれたのです。それ以後テレビは衰退の一途を辿っています。

 (ははきぎ・ほうせい 精神科医/小説家)

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