書評
2021年4月号掲載
なぜを見抜く者が帰ってきた!
青山文平『泳ぐ者』
対象書籍名:『泳ぐ者』
対象著者:青山文平
対象書籍ISBN:978-4-10-120094-1
奇妙な謎と意外な動機でミステリ・ファンを瞠目させた傑作『半席』から早五年、"なぜ"を問われぬ世界で、"なぜ"を探る徒目付(かちめつけ)・片岡直人が帰ってきた!
十九世紀初頭、文化年間の江戸を舞台に、半席という一代御目見得から旗本へ身上がるために、徒目付を通過点と見なして勘定所を目指している片岡直人。『半席』は、そんな直人が徒目付組頭の内藤雅之からの命を請け、公式の仕事である表の御用とは別に、外から持ち込まれた頼まれ御用に取り組む様を描いた連作短編集だ。直人は、罪を認めながらも動機に関しては固く口を閉ざしたままの犯人の気持ちの奥底に深く分け入り、不可解な事件の裏に潜む真の動機を探り当てるべく奮闘する。そうして、なぜその事件が起きなければならなかったのかを解き明かすにつれて、求められるのは自白のみで"なぜ"を問われぬ表の御用だけでは見えてこない人の地肌を見ることに魅せられ、悩みもがき、蒙を啓かれ人間として成長していく。
所謂ホワイダニットWhydunitと呼ばれる、"なぜ"を問うタイプのミステリとしてオールタイム・ベスト級の逸品である「真桑瓜」「六代目中村庄蔵」を双璧とする珠玉の六篇からなる『半席』は、「このミステリーがすごい! 2017年版」で見事四位に輝いた。武家の有り様を描く正統派時代小説であると同時に、一人の青年のビルドゥングスロマンでもある豊饒で滋味深い物語が、ジャンルの壁を越えて多くのミステリ・ファンの心をとらえたのだ。
その続編となれば、いやでも期待は高まる。しかも今回は長編だ。前作の終わりで自身の行く末に関して大きな決断をした直人。あれから九ヶ月、『泳ぐ者』の物語は、なじみの居酒屋・七五屋で、心身に不調を来している直人が、遠国御用から戻った上役・内藤雅之に四ヶ月ぶりに会うシーンで幕を開ける。遠国での御役目に絡めて、近年急速に台頭してきた異国の脅威と海防の備えについて語り合った末に、雅之は自身が不在だったときに直人がしくじった表の御用について問いかける。「他になんかやりようがあったとか思うかい」と。忸怩たる思いを胸に、「あったのでしょう」「いまは皆目見えませんが」と答えるのが精一杯の直人に対して、雅之は常と変わらぬ口調ですっと言う。「あったとさえ思ってりゃ、いずれ見えるだろうよ」と。
そう、『泳ぐ者』は、片岡直人が御用絡みで初めて経験する失敗の物語だ。長年連れ添った末に離縁された六十三歳になる元妻は、なぜ三年半もたってから、長子の眼前で、重病で寝たきりの六十八歳の元夫を刺殺したのか。雅之が江戸を発って二月ばかりたった頃に振られたこの事件で、直人は最悪の結末を招いてしまうのだ。冒頭、心身ともに不調を来しているのはそのためで、そんな折に、巷で噂になっていた、毎日決まった時刻に大川を泳いで往復する男の姿を目撃する。なぜ男は、十月の冷たい水の中で、溺れるような下手な泳ぎを繰り返すのか。そして彼が見せた笑みは何を意味するのか。二つの事件を通じて直人は、人が心の裡に棲まわせる鬼を見る。心底に闇がりを抱いて日々の闇がりに対している人の、挙げることが適わぬ悲鳴を聞く。
直人自身が深く関わる事件を通じて、武家として、見抜く者として、なにより一人の人間として自らのあり方を見つめ直す話で締めくくった『半席』の直後に、作者は主人公を一旦転ばせる。転ばせた上で、見抜く者として上司の導きから抜け出し、独り立ちすべく不器用に体を動かし、頭を絞り立ち上がる様を物語る。そして直人を歩ませ続けるのだ。なぜを解明しさえすれば御勤めとしては済むが、科人の裡に棲む鬼を追い遣って罪ある己れを悟らせ、残された家族に科人と自らへの赦しの機会を供してこそ見抜く者だという信念から逸れることなく。
この挫折と再起の物語を書くに当たって、「創作はオリジナリティがすべてであり、陳腐は最大の敵である」という信念を持つ作者は、高評価を得た『半席』の設定のままではよしとせず、作品世界に三つの大きな変化を施した。直人が表の御用でもなぜを追うようお役目の仕法を変えた上で、変更を提案した雅之の導きに頼れない状況下で、初めて女性や町人の科人と対峙するように工夫を凝らしたのだ。
その結果、直人が触れる世界は格段の奥行きと広がりを得るとともに、なぜを追うためにより時間を掛けられるようになり、ミステリとしても成長小説としても前作から一回り大きく、一段階きめ細かく仕上がった。紆余曲折の後に、直人が最後に己に課すもののなんと重く苦いことか。