書評

2021年4月号掲載

古典は語りのなかで蘇る

大小田さくら子『やまとかたり 古事記をうたう

上野誠

対象書籍名:『やまとかたり 古事記をうたう
対象著者:大小田さくら子
対象書籍ISBN:978-4-10-353891-2

 著者の名前を見た時、「あぁ、さくら子なら『万葉集』から取ったんだなぁ」とピンときた。『万葉集』の「さくら子」は、伝説上の美女で、悲劇のヒロインなのである。著者は大学院で学んだ経験もあり、語りや舞踊の専門家として活躍する、難しくいえば「身体表現」のオーソリティである。その著者が、とあるきっかけで『古事記』や『万葉集』の語りをライフワークに選んだというのである。
 本書を読んでゆくと、著者がどのような出逢いを通して、「語り手」になっていったのかが、わかる。著者は、「語り手」としての人生を選んだ人なのであった。だから、著者は、自ら『万葉集』の伝説の主人公の名を名乗ったのだ。現在、日本全国で、ところ狭しと語りの活動を繰り広げている。
 日本の古代においては、「語る」ことと「歌ふ」ことは、不離一体であった。『古事記』でも『日本書紀』でも、ストーリーは、語りによって展開してゆくのだが、主人公の心情は歌によって表現される。これは、洋の東西を問わない。オペラだって、この方法で作られている。ところが、である。歌によって心情は語られるわけだし、語りというものにも、メロディーラインというものがある。この点にこそ、語りと歌の深い関係があるのだ。
 著者は、声高に理論を振りかざしたりしない人だが、本書の中盤に展開されているのは、この歌と語りの身体論として読むべきものだ(「第3章 わたしの古事記」)。しかし、それが、自らの実践報告として語られているところに、本書の特徴がある。
  からだの力を抜いて、立ちます。
  天と地をつなぐ柱をたてるように、背骨をまっすぐにします。
  胸のあたりの透き通った場所に、水がたたえられているのを想像して下さい。
  その水が、波立たず、澄み切った状態になった時に、声を出し始めます。
  胸やお腹、喉でとか考えずに、力を入れず自然に声を出します。
                (第3章、一五四頁~一五五頁)
 のあたりは、自らが語り手となってゆくイメージトレーニングのようなものであり、著者は、語り手になりきって舞台に立っていることがわかる。
 つまり、現代の稗田阿礼(ひえだのあれ)として、そこに立つのである。いや、出現するのである。アナウンサーが読んでいるのではなく、学者が講義をしているのでもなく、語り手・稗田阿礼が、その場に来て語ることを目指しているのである。そこに私は、著者の立ち位置と覚悟というものを知った。
『古事記』の上巻、それも神々の生成を語るところは、現代人のわれわれから見れば、神名の羅列でしかない。しかし、稗田阿礼は、これを淀みなく語ることによって、山の神の名を唱えて、そこに山を出現させ、風の神の名を唱えて、そこに風を出現させたのである。私たちは、「コト」を「言」と「事」とに分けるが、それは古代的なものの考え方ではない。「言」と「事」は一つで、それがヤマトコトバの「コト」なのだ。著者は、現代人のわれわれから見れば、神名の羅列にしか見えない『古事記』の上巻を、阿礼の語りのように、そこに「コト」が立ち表れるように語ることを目指して語るのである。つまり、次々に登場する神の名が、一つの語りになり、壮大な叙事詩となるように語ろうというのだ。そのための自らの努力のありようが、楽しく語られている。
 次に、著者が重要視しているのは、語りの場である。『古事記』や『万葉集』を語るために、何度も大和に足を運び、その土地の神から、あたかも啓示を受けるように旅をつづける人なのだ。
 これも、洋の東西を問わないのだが、ホメロスも、琵琶法師も、旅をして、詩を語っているのである。旅を通じて得たインスピレーションを活かす語り手となろうとしているのであろう。だから、本書の半分は、著者の旅行記となっている。しかし、旅行記といっても、ただの旅行記ではない。それは語り手の旅の記録であり、語りの場の記録なのである。コロナ籠りで旅が禁じられているわれわれにとっては、紙上で語りの旅を経験することができる。
 一読して、思ったのは、これらのことは、近代の古典教育に決定的に欠けていることがらだ、ということだ。どんなにうまく試験問題の解法を教えても、教師がいかにその古典を語るのかということが抜けてしまっては、生徒に、その魅力を伝えることは、とうていできない。なぜならば、江戸時代までの古典というものは、声に出して読むものだったからだ。だから、古典を教えるということの第一歩は、文字を音声にすることなのだ。そして、歩かなければ、ダメだ。語りとは、古典に身体を与える行為なのだ。だから、この本は、するどい近代の古典教育批判となっている。
 やはり、古典は、語りのなかでしか、蘇らない、と私は本書を読んで痛感した。

 (うえの・まこと 奈良大学文学部教授、万葉文化論)

最新の書評

ページの先頭へ