対談・鼎談

2021年4月号掲載

山本芳久『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書) 刊行記念対談

「人生のソムリエ」になろう

若松英輔(わかまつ・えいすけ)   山本芳久(やまもと・よしひさ)
批評家。東京工業大学リベラル     哲学者。東京大学教授。   
アーツ研究教育院教授。                      

対象書籍名:『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義(新潮選書)
対象著者:山本芳久
対象書籍ISBN:978-4-10-603861-7

善は悪よりも優位にある

若松 じつは山本さんとは三十年来の友人で『キリスト教講義』(文藝春秋)という共著を出したこともあります。これまでも折にふれてトマス・アクィナスのことを教わってきました。

山本 トマスは中世ヨーロッパを代表する哲学者・神学者です。その主著『神学大全』は世界史の教科書で必ず紹介されるので、名前だけは知っている人も多いと思いますが、日本語訳で全四五巻もあり、実際に読んだことがある人はほとんどいない「読まれざる名著」です。

若松 まずはタイトルの『世界は善に満ちている』にある「善」についてお伺いします。私たち日本人は「善と悪」は対等なものと考えがちですが、トマスは違うと言っていますね。

山本 「善」と聞くと、道徳的によいという意味に捉える人が多いと思いますが、トマスは、道徳的善だけでなく、有用的善、快楽的善の三つがあると考えます。私たちも、たとえば「よいレストラン」と言う時は、シェフが道徳的に高潔な人物だとかではなく、料理がおいしくて雰囲気もよいから、そう評価するわけですね。つまり有用性や快楽、そのような何かしらの「価値」を与えてくれるものが善なのです。

若松 その考え方に従えば、空気や水など私たちの身の回りにある多くのものが善として捉えられるわけですね。

山本 一方「悪」は、そういう善が損なわれてしまう状態です。これも道徳的なものに限らず、たとえば地震が起きて蛇口をひねっても水が出ない、あるいは感染症が流行してレストランが閉店してしまうなどということも、有用性が損なわれているという意味で「悪」になります。

若松 善を損なうものが悪であるなら原理的に、善がなければ悪は存在しえないことになります。

山本 ですから、もし「世界は悪に満ちている」と感じている人がいても、じつはそれらの悪に先行して、善がこの世界に満ちていることが前提になっているのです。トマス哲学の視点から世界を見直すと、より肯定的に生きられるようになると考えています。

若松 西田幾多郎の『善の研究』では善と悪を対比し、分かちがたいものであると考え、それを突破しようと考えましたが、それとはちょっと違う視座で興味深いですね。

感情は受動的に生じる

若松 トマスの「感情」の捉え方も独特です。「感情が豊かだ」とか「感情的にならない方がいい」といいますが、これは私たちが感情を、心の中にある能動的なものだと捉えている表れだと思います。しかしトマスは、感情は受動的なものだという。

山本 トマスの言う「感情」は、ラテン語のpassio(パッシオ)です。英語のpassion(熱情)やpassive(受動的)の語源で、感情を意味すると同時に受動という意味でもあります。そこには深い含意があって、感情は心の中で能動的に生じるのではなく、外界からの働きかけを被ることによって、受動的に生まれてくると理解されているのです。

若松 本居宣長は「感く」と書いて「うごく」と読みましたが、この感覚は案外トマスの考え方と近いのかもしれません。
 私も講演などで「受動的な創造性」という話をすることがある。ものを書いたりする時に、能動的に創造的であるよりも、受動的に創造的である方が、むしろ自分らしく書ける。この感覚は人に伝えるのがなかなか難しいのですが、トマスの哲学によれば的確に語れるような気がしました。

山本 創造性について、トマスはラテン語のcreatio(クレアチオ)(英語のcreationの語源)という言葉を用いて説明しています。これは本来、無から何かを創り出すという意味で、神のみにしか使えない言葉です。なぜなら、人間は何かを作るとき、必ず材料を必要とするからです。
 文章を書くという営みも、ゼロから言葉を紡ぎ出すわけではなく、先人たちが使ってきた言語を使い、先人たちが積み重ねてきた議論を前提に、そこにほんの少し自分の新たな発想を付け加えることで成り立っています。その意味で、人間の創造性も、やはり受動性から出発する側面が強いわけです。

四つの枢要徳

若松 本の中では「枢要徳」と呼ばれる四つの徳、すなわち賢慮・正義・勇気・節制の話も出てきますね。

山本 枢要徳は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の議論を、トマスが受容しつつ発展させたものです。
 賢慮は、ひと言でいうと判断力です。自分が置かれている状況を把握し、今ここで何をするべきなのかを判断する力ですね。これが枢要徳の中でも最も重要な力とされています。
 もちろん、正義(他者や共同体に適切に関わる力)や勇気(困難な悪に立ち向かう力)も大切です。しかし、状況判断が適切でないと、かえって正義や勇気が害をなすこともありますから、賢慮がもっとも重要なのです。
 節制は、自分の欲望をコントロールする力です。正義や勇気があっても欲望にだらしないために失敗してしまうこともあるわけですね。

若松 気候変動の問題をめぐってアメリカでは「気候正義(Climate Justice)」という言葉を使う。先進国の人たちが思慮なくエネルギーを浪費することによって、貧しい国の人が苦しむのは正義に反するというわけです。

山本 日本で正義と言うと、一人一人の問題というよりは、社会とか制度の問題として語られることが多い印象があります。でもアリストテレスやトマスの言う正義は、一人一人が他者や共同体と適切に関わる力を指しています。日本でも、個人としてそのような徳を充実させていくことが、社会全体の善さにつながっていくという発想が、もっと強くあってもいいかもしれません。

若松 気候変動の問題を考える際に、もう一つ大事な枢要徳は「節制」ですね。私たちはエネルギーの消費を少なくしなければならないわけですから。
 本書では節制と抑制は違うという話があって「節制の喜び」という現代日本ではなかなか見かけない表現も出てきて、とても興味深く読みました。

山本 節制と抑制は何が違うかというと、たとえば机の上に置いてある甘いお菓子を食べたいけれども、ダイエット中だからと、いやいや我慢するのが抑制です。
 それに対して、それを食べるのは自分の健康にとってよくないことだと判断して、自ら食べないという選択をする。すると「今日も健康な食生活を送ることができたな」という喜びを感じることができる。これが節制です。

若松 つまり節制という「徳」を身につけることは、むしろ自分が真に望んでいるものを見つけ、本当に満足するあり方へと自分を導いていくことなんですね。私たちが善く生きていくために、非常に重要な見解だと思います。

徳をどう身につけるか

山本 トマスは、徳を身につけるのは、技術を身につけるのと似ていると言っています。たとえば子どもがピアノを習うとき、最初は上手く弾けないからいやいや練習するけれど、ある程度弾けるようになると、だんだん楽しくなってくる。節制もそれと同じだというわけです。トマスの定義では「徳=善い習慣」なんです。

若松 習慣という言葉は近代日本では必ずしも良い意味ではなかった。たとえば柳宗悦などは、日用品に慣れてしまいその美を顧みない、惰性のような意味で用いています。しかしトマスにおいては、習慣はもっと積極的なもので、じつに創造的な何かなんですね。

山本 習慣はラテン語ではhabitus(ハビトゥス)ですが、これは惰性のような軽い意味ではなく、ある意味で人間そのものなんです。人間とは「習慣の塊(かたまり)」であって、その人が積み重ねてきた習慣がその人らしさを形成している。ですから善い習慣を身につけることは、善く生きる上で決定的に重要なのです。

若松 私は下戸ですが、美味しいワインを味わうためには、美味しいワインを味わう習慣を身につける必要があるという話が印象的でした。

山本 これも元ネタはアリストテレスですが、「整えられた味覚を有する人に美味しいと思われるものが、真に美味しいものである」という言い方をしています。何を美味しいと思うかは人それぞれですが、だからといってまったく何の基準もない相対的なものではない。味の善し悪しを適切に見分けられる「最善の味覚を有する人」がいるとトマスは言うんです。

若松 「善」と「味覚」が合致しているのも興味深い感覚です。「味わう」ということも再考してみたいと思いました。

山本 本当にそんな人がいるのかとツッコみたくなると思いますが、たとえばソムリエという職業がありますよね。ワインのテイスティングの訓練をして「これは何年モノの良質な逸品だ」とか云々するわけですが、ソムリエによって個性はあるものの、てんでばらばらなことを言うわけではありません。訓練をきちんと積めば、ワインを味わう舌が整えられて、味覚がある種の方向に収斂していくわけです。
 もちろんアリストテレスやトマスは、ワインの話をしたいのではなく、人間が生きていくうえで何が善くて何が悪いかを判断していくのも、それと似たところがあると言いたいわけです。

若松 「徳=善い習慣」を身につけていくことによって、さまざまなものの「善」が見えてくる。これは心の問題でも同じだと思います。幾多の経験を重ねることで、微細な感情を感じられるようになってくる。
 あるいは、言葉との関係でも同様のことがいえると思います。音楽や絵画などの芸術経験においても同様でしょうね。

山本 この世界の善さというのは、最初からすべて分かるものではなく、善いものに触れる習慣を形成していくことによって、だんだんと分かってくる。
 そのような習慣を身につけるのは、必ずしも楽しいことばかりじゃなくて、ピアノの練習の例のように、最初の方は半分いやいや努力するという側面もあったりします。しかし、善い習慣を積み重ねることによって、この世界の善さに自らが開かれていき、それを深く味わえるようになる。
 このように、世界の善の味わい方を教えてくれるトマスの哲学は、いわば「人生のソムリエ」になるための教科書として読むことができるのです。

 (本稿は、2月6日にNHK文化センター青山教室の企画としてオンラインで行われた対談に、両氏が加筆修正を施したものです)

 (わかまつ・えいすけ 批評家/東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)
 (やまもと・よしひさ 哲学者/東京大学教授)

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