書評

2021年5月号掲載

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理系知と人文知のあいだ

森田真生『計算する生命』

福岡伸一

対象書籍名:『計算する生命』
対象著者:森田真生
対象書籍ISBN:978-4-10-121367-5

 パンデミックが世界を覆い尽くそうとする直前の2020年の春先、わたしは、積年の夢だったガラパゴス諸島への旅を実現することができた。
 絶海の孤島に繰り広げられる大自然は、文字通り、驚異と絶景の連続だった。ガラパゴスゾウガメやイグアナ、グンカンドリやペリカン、アシカやオットセイなど、この島に奇跡的にたどりついた生き物が自由自在に繰り広げている生命系はまさにピュシス(ギリシャ語でいうところのありのままの自然)そのものだった。ここは進化の袋小路ではさらさらなく、むしろ進化の最前線、今もものすごいスピードで進化が展開されている進化の実験場なのだった(なので、ガラパゴス化、などという言い方はとんでもなく間違っているのである)。
 一方、我が身を振り返ってみると普段、様々な文明の利器と、インターネット・AIに象徴されるロゴス(ギリシャ語でいうところの論理、言語、アルゴリズム)にどっぷりと浸かった、都市化された生活から一気に引き剥がされ、かなり困惑させられた(小船をチャーターして航海したのでいきなりトイレや水の問題に直面した。島に上陸しても、ほとんどが無人であり、人為的行為は一切禁止である)が、徐々に、自分も生身の生物としてピュシスの動的平衡と循環の中の一員であることを感得できるようになった。何もない水平線から朝日が上り、何もない水平線に夕日が沈む。夜は満天の星。星が多く見えすぎて、星座がかき消されるほどだった。そうなのである。星座もまた人間の認識=ロゴスの産物なのだ。
 人生観が一変する、そんな体験の中、ずっと考えていたことは、この「ピュシスvs.ロゴス」という問題だった。脳が肥大化した人間は、ロゴスを獲得し(その過程は、ハラリによれば「突然変異」の一言で済まされるが、そんな単純な変化ではなかったはずである)、ロゴスの力で世界を構造化・相対化できた(養老孟司のいうところの「脳化社会」、ハラリのいうところの「フィクションの力」である)。そのおかげで、ヒトは、ピュシスの命じる自然の掟(「産めよ、増やせよ」)の外側に脱出することができ、種の存続よりも、個の尊重が優先される社会を作り得た。
 しかし、ロゴスはロゴスである。ピュシスを完全にコントロール下におくことは出来ない。それを忘れて、快適な都市生活とグローバリゼーションを享受してきたところに、突如、漏れ出てきたのがピュシスからのリベンジだった。そう、ほかならぬコロナウイルス禍である。
 読書の快感とは、そんなふうに準備された心に、我が意を得たりという本がふわりと舞い降りてくる瞬間、その刹那に出会うことにつきる。それが本書である。前作『数学する身体』もそうだったが、森田真生の本はいずれもタイトルが"ロゴスするピュシス"という構図になっている。なぜだろうか。私は、彼の問題意識の所在を次のように読み取った。
 計算する(あるいは数学する)という極めて厳密で論理的なロゴス的行為が、どうしてときに拡張性や生成性といったピュシス的な帰結をもたらすのだろうか、という大きな問いを解くこと。
(次の例は、わたしのたとえなのであまり適切ではないかもしれないが、)一見、全く関係のないように見える不思議な数、e(自然対数)とi(虚数)と π(円周率)は、掛け合わせるとマイナス1になってしまう(正確には、e=-1)。なぜロゴスのトンネルの向こうにかくも見事なピュシスが待っているのだろう。それはとりもなおさず、数学する主体である私たちの身体性が、私たちの生命が、ピュシスだからではないか。美しさや驚きはピュシスの領域に属するものだからではないか。
 ではそのトンネルの経路はどうなっているのだろうか。それをできる限りのロゴスで記述してこそ数学である。デカルトは神の摂理を、カントは直観の作用を唱えたが(このあたり、難解なテーマを森田は明快に伝えてくれる)、それでは言葉の解像度が足りない。
 森田はここで、一旦立ち止まり、人工言語の始祖、ゴットロープ・フレーゲ(1848ー1925)のテキストを丁寧に読み解く作業を行う。
 フレーゲは、「主語―述語」という言語記述の曖昧さを乗り越えるため、「項―関数」、という見方に基づく新たな論理体系を構築した。このことによって、ロゴスはさらに先鋭なロゴスとなり、「言語」の計算的な操作が可能となった。同時に、ロゴスがピュシスに接近する様相を数学的に解析する基盤も出来上がったかのように思えた。ところが意外なところに矛盾が隠されていた。フレーゲは、それを解決できないまま世を去ることになる。その人生、ピュシスもまた壮絶である。
 が、彼の衣鉢を継ぐ者たちが現れた。ウィトゲンシュタイン(1889ー1951)やチューリング(1912ー1954)たちである。その先に、現在のコンピュータやAIの勃興がある。ここが本書の読みどころ、かつ難所なので、読者諸賢もそれぞれ挑戦してほしい。
 一方、最初の問いはまだ解かれてはいない。繰り返すなら、計算という論理的でロゴス的行為が、なぜ生命的でピュシス的な帰結をもたらすのかという問いだ。フレーゲのロゴスは、あくまでもピュシスをたわめたものである。そこには"ねじれ"がある。わたしも正しく理解できた自信はないが、その理解への挑戦にこそ、生きて、考える意味はある。誤解を承知であえて単純化していえば、ピュシスの実相と、ロゴスの星座とのあいだに、集合的な写像関係を考えることに矛盾解消の希望が託される。そして、そこに生じる"たわみ"もしくは"ねじれ"がほどかれるとき、トンネルは出口を見つける。そう読んだ。
 とはいえ、明示的な最終解が示されるわけではない。まだ、道半ばである。しかし、森田真生には若さと勢いがある。文章にひたむきさがある。真摯さがある。いつかこの数学最大の難問の向こう側に抜け出る理路を発見することに期待したい。
 彼は、ピュシスがあえてロゴスに接近しようとすること、つまり生命や身体の自由が、AIやデータサイエンスに恭順しすぎる現在の世界状況に重大な懸念を表明する。その恭順の姿勢は、解へのアプローチとしては逆なのである。最高に純粋なロゴスとしての数学がなぜ、最後にピュシスに帰依するのかが解かれなくてはならない。彼は言う。「生命を作ることで生命を理解するのではなく、生命になることで生命をわかるという道がある」(本書あとがきより)はずだと。
 そのとおりである。生命は外部からではなく、内部から定義されなくてはならない。つまり、ピュシスをロゴスで解体するのではなく、ロゴスを外挿してピュシスに達しなくてはならない。
 理系知と人文知のあいだに橋をかけようとする試みの、近年最高の達成ではないだろうか。

 (ふくおか・しんいち 生物学者)

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