書評・エッセイ

2021年5月号掲載

エッセイ

あの日、ヒトラーを見た私

――佐江衆一『野望の屍』に寄せて

安西篤子

対象書籍名:『野望の屍』
対象著者:佐江衆一
対象書籍ISBN:978-4-10-309020-5

 昨秋に亡くなった佐江衆一氏の御遺作『野望の屍』をいただいた。
 佐江氏には何度か御目にかかったが、取り立てて親しいというほどではない。御著書をいただくのも初めてだった。けれども、表紙を見て思い出した。以前にお会いした時、私がむかし、ドイツにいて、ヒトラーを見たとお話ししたことがある。それを覚えておられて、この御本を送るよう手配して下さっていたのだろうと思った。
 さっそく拝読した。たいそうおもしろかった。私はこどものころ、中国各地で暮し、上海では蒋介石の邸の隣に住んでいたから、その点でも興味深かった。
 一九二七(昭和二)年八月に神戸で生れた私は、十一月には日本郵船の伏見丸に乗って欧州へ向かった。銀行勤めの父が、ハンブルクへ転勤になったのである。母の話では、二八年の一月一日に、マルセーユへ着いたという。
 私がもの心ついたのはハンブルク時代で、庭の広い一戸建てで、隣家のドイツ人のお姉さんが、よく遊んでくれた。その後、父がベルリンへ出張所を開くよう命じられ、ベルリンへ移った。ベルリンでは、マンション住まいだった。女中のケーテがかわいがってくれた。
 ヒトラーが台頭したのは、そのころである。
 ベルリンで最初に住んだのは、カスタニアーレという通りの五階建てマンションの五階だったそうだが、わずかしか住まず、私は覚えていない。次に移ったのが、アムパーク十五番地のマンションで、ここはよく覚えている。ここも五階建てで、一フロアが一戸になっている。私どもは二階に住んだ。
 マンションと云っても、かなり広い。玄関を入るとホール、その奥の客間には、大家さんが残していったものと、私の母のもの、二台のグランド・ピアノがあったが、まだ広々としていた。続いてダーメン・チンマ(婦人用客間)、ヘーアン・チンマ(父の書斎)、寝室、食堂、子供部屋、女中部屋、台所、浴室などがある。
 向いのマンションには、当時、人気の映画スター、マルレーネ・ディートリッヒが住んでおり、ときどき見かけた。
 私どものマンションの持ち主は、資産家のユダヤ人で、ナチスが勢いを得てきたため、危険を感じ、市外のワンゼー(湖)のほとりの別荘に移り、あとを家具つきで、私どもに貸したという。
 一度、招かれて、別荘へ遊びに行ったことがある。両親が食堂で御馳走になっている間、私は退屈して、廊下をぶらぶら歩きまわった。通りかかった部屋のドアを開けると、そこは不要な道具をしまっておくところらしく、雑多な家具の間に、私の背丈より高い白い物が見えた。近寄ってみると、それは白鳥の羽だった。なんだか怖くなって、あわててそこを出たのを覚えている。
 別荘には芝生の広い庭があり、湖までななめに続いていた。のちに映画で、これとそっくりの別荘が舞台になっているのを、見たことがある。
 日本へ帰ってからも、両親はときどき、大家さんのことを思い出して、話していた。ひどい目に遭っていないだろうか、アメリカへでも逃げていればいいが、と云っていた。
 ベルリンでは、私はいつも、ケーテにくっついて歩いていた。日常会話はドイツ語で、親ともドイツ語で話した。日本へ帰ったとき、日本語が話せず、小学校へ上がる直前だったので、親が心配して、当時、住んでいた東京・阿佐ヶ谷の幼稚園に通わせた。私はたちまち日本語で話すようになり、ドイツ語は頭から抜けてしまった。
 そのドイツ語だが、家へ来たドイツ人の客に云わせると、田舎訛が強いという。私のドイツ語は、女中のケーテから覚えたもので、ケーテは田舎の出身だったらしい。
 ケーテが近所の小間物屋へ、糸や針を買いに行くときも、私はついて行った。店の主人は、いつも黒い服を着た、陰気な感じの中年の女性で、ユダヤ人だという。大家さんもそうだが、つまり、ユダヤ人はベルリン市内に溶けこんで暮していたのである。
 私がヒトラーに興味を抱くのは、どうしてあれほどユダヤ人を排斥し、いじめたか、ということである。日本でも、関東大震災の折、在日朝鮮人をひどい目に遭わせた。が、それは一過性に過ぎない。
 ヒトラーの場合、まず宗教が背景にありそうだ。すくなくとも、口実にはなるだろう。
 日本人は宗教の受け入れに寛容だが、ヨーロッパ人は、そうはいかない。日本人は神式で結婚式を挙げ、人が亡くなれば仏式で葬儀をする。神様も仏教も、有難い対象で片づけてしまう。
 ベルリンの人たちは、日曜日には必ず、教会へ行く。父は学生時代、銀座教会で洗礼を受け、一応、クリスチャンだが、日曜ごとに教会へ行くことはない。
 キリスト教徒とユダヤ教徒。そこには、日本人にはちょっと理解不能の溝が、あるのかも知れない。
 ヒトラーが勢力を増してきたある日、父は六歳の私を連れて、ヒトラーの邸の前に行った。その日は、ヒトラーの誕生日だった。邸の二階のバルコニーに、ヒトラーが姿を現すと、バルコニーの下に集まった群衆が何事か叫んで手を振る。それに対して、ヒトラーが手を振り返す。たいそうなさわぎだった。
 私の見たところ、群衆の大半は、十七、八歳から二十代前半の、若い女性だった。金髪で色白、ふくよかな女の子たちで、美しいというより、素朴で無邪気といった印象だった。
 なぜ父は、そんなところへ私を連れて行ったのだろうか。
 銀行勤めの父のもとには、新しいニュースがどんどん入る。ヒトラーの台頭によって、第一次大戦後の疲弊したドイツに、なにか変化が起こる、そう感じて、当のヒトラーがどんな男なのか、自分の眼で見たかったのではないか。男一人より幼い女の子を連れていれば無難に見える。ついでに私に、歴史に残る人物を見せてやろう、そんなところか。
 幼い私の印象では、ヒトラーはごく普通の男性で、なぜ女の子たちがキャアキャアさわぐのか、わけがわからなかった。
 実は母もヒトラーを見ている。カイザーホーフといったか、ベルリンのホテルで、日本人の夫人たちのお茶の会があった。ホールにいると、大階段を、お供を連れたヒトラーが降りてきた。
 私が大人になったあと、その話を聞き、「どんな人だった?」と尋ねた。母はいつも冷静な人で、その時も、「小さい人だったわ」と答えただけだった。それが印象のすべてらしい。
 九十三歳になる私は、最近、ユダヤ人関係の本を選んで読んでいる。たとえばサーシャ・バッチャーニの『月下の犯罪』(伊東信宏訳、講談社)、深緑野分氏の『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、クリストファー・R・ブラウニングの『普通の人びと』(谷喬夫訳、筑摩書房)等。
 しかし、読めば読むほど、わからなくなってくる。
 私がベルリンで体験したように、ユダヤ人は市民に溶け込んでいた。いや、私にはそう見えた。
 私の住むマンションの前には、道路一つ隔てて公園がある。冬には池が氷って、スケートができる。小山があり、橇ですべり下りて遊ぶ。私は同年輩の金髪の男の子と仲よくなり、よくいっしょに遊んだ。ほかにも友だちができたが、ドイツ人かユダヤ人かで差別する、などといった経験は、一度もない。
 日本人にはわからないだけで、ひそかな差別は、あったのだろうか。
 佐江衆一氏の『野望の屍』を読むと、ヒトラーがいかにたくみに権力を握っていくかが、よくわかる。
 しかし、それは一方で、喜んで彼を受け入れていくドイツ民族がいたためである。誕生日にバルコニーで手を振るヒトラーと、熱狂する女性たち、その光景を思い出すと、当時のドイツ人たちの心情が、どうであったか、よく理解できるように思われる。
 私の父は、ヒトラーの、そしてナチスの危険なことを、よく知っていた。むろん、口には出さなかったが。
 一九三三(昭和八)年に、父が横浜の本店勤務になり、私どもは照国丸で帰国した。偶然、渡欧の時の伏見丸と同じ大矢船長で、私を見て「大きくなったね」と云って下さった。
 その後、父は中国の天津・上海・営口などを経て横浜本店に転勤した。一九四一(昭和十六)年のこと。
 横浜に上陸すると、ホテルニューグランドに二、三日滞在した。たまたま訪日中の「ヒトラー・ユーゲント」の少年たちと、泊まり合わせた。彼らと廊下ですれちがうとき、声をかけたかったが、きまりが悪く、黙って通り過ぎた。彼等は帰国後、どんな運命を辿っただろうか。
 ヒトラーは公式には、生涯、独身を通した。誕生日のあのさわぎを見れば、その意義もわかる。
 いったい、ヒトラーとは、どんな男だったのだろうか。のちにチャップリンが演じているが、ほんとうに、チャップリンと一脈、通じたところがあるような気がする。本人は大まじめだが、はたから見れば、ちょっと滑稽な男。
 そんな男とユダヤ人の関係が、私にはどうしてもわからない。あのアウシュヴィッツの悲劇、あれほどのことが、どうして起こったのか。
 おそらく日本人であるかぎり、まず、理解することはできないのではないか。そう思いながら、今日もあれこれ、読んでいる。

 (あんざい・あつこ 作家)

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