書評
2021年6月号掲載
依存する人に依存する
金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』
対象書籍名:『アンソーシャル ディスタンス』
対象著者:金原ひとみ
対象書籍ISBN:978-4-10-131335-1
インターネットで自分の名前を検索すれば、いつでも誰かが何かしら書き込んでいる。冷静に考えてみれば、これは異常な事だ。見ず知らずの人に、絶えず好意や悪意を投げかけられている事が、どうしても気になって仕方がない。最初は趣味程度だったはずのエゴサーチも、いつしか病的な頻度になった。朝起きてすぐに枕元のスマートフォンに触れ、検索窓につい自分の名前を打ち込んでしまう。小学生の頃の、無意識に鼻をほじってしまうあの癖によく似ている。エゴサーチで見つけた言葉なんて所詮鼻くそ程度だ。わかっていても、その見ず知らずの誰かの言葉にすがってしまい、もう後戻りができない。だから、エゴサーチで傷ついた分、エゴサーチで癒されようとする。迎え酒ならぬ、迎えエゴサーチだ。「ストロングゼロ」の主人公は、そんな自分と重なる。ストロングという言葉の弱さ、滑稽さ、それでもそれを飲まずにはいられない主人公に、いつしか共感を超えて何かを託している事に気がつく。そうして託した結果、あの生きる事のすべてみたいな結末に、絶望しながら安堵した。
それならば、美容整形をくり返す「デバッガー」の主人公は、レコーディング中の自分と重なる。とりわけボーカルレコーディングの際、歌のテイクを気にして一度直してしまえば、もうそこからは歯止めが利かなくなる。ある部分が良くなれば、今度はそれまで気にならなかった別のある部分が気になりだすからだ。人を人と比べる事でしか優劣はつけられない。だとすれば、顔のパーツもその他との相対評価だ。そして、自分が気になっているその部分こそが、他人から見れば良いと思われる部分だったりもするからややこしい。人は自分でいる以上、常にそれ以外の他者の目にさらされる。一つ直す事によって何かが崩れ、その崩れた部分を突き止めようとしてまた直す。それに伴う副作用に怯えながら、それでもやめられないのは他者の存在があるから。それは主人公にとっての若い恋人であり、自分にとっての音楽リスナーだ。そしてその関係によって生まれる羞恥こそが、他者の存在を強く教えてくれる。それが虚しくて悲しい。
「コンスキエンティア」の主人公を見ていると、セックスをする事によって浮き彫りになる隔たりを感じる。本当は、セックスをしている時こそ相手が見えていない(見ていない)のではないか。〈このまま一つに溶け合う〉なんて歌詞になりそうな甘ったるさはなくて、どこまで行っても、ただの隔たりがある。新しい体を知り、繰り返す事で慣れ、やがて飽きる。だからセックスを、相手と一つになる為のものではなく、他者と自分を切り離すものと感じる。人と人の裂け目、私とあなたの境目、そこに溜まった汚れや臭いに思わず顔が歪む。
「アンソーシャル ディスタンス」で描かれる男女は、ロックフェスにおける演者と観客そのものだ。ディズニーランドで身につけるファンキャップやカチューシャのような、その場限りのコミュニケーションで関係が成立している。この話に出てくる幸希もそうだけれど、不安定な人間に限ってすぐに未来の話をしようとする。まるで、いつかロックフェスのステージ上で自分がした軽薄なMCのように。
「テクノブレイク」には妙な安心を覚える。ここまで絶望が重なれば、もう逆に安らぐ。コンビニで買ったアメリカンドッグにかけるケチャップとマスタードみたいに、パキッと折ればピュッと飛び出して手も汚さない。後はもう、空の容器を捨てるだけだ。
金原さんの言葉は音が小さい。だから、目を通して過不足なくピタリと聴こえる。演奏がうまいバンドほど、ステージの中の音が小さく整理されているのと同じように。そのせいで、読んでいて何度も我に返る瞬間があった。そうして自分は、何かに依存する人に依存しているという事に気がつく。いずれ自分に降りかかるかもしれない不幸が、今は他の誰かに降りかかっているという安心からどうしても目が離せない。そうしていなければ、今度はそれが自分に降りかかってきそうに思うからだ。この世の終わりみたいな主人公たちに自分を当てはめ、表向きは共感しているフリをしながら、ただただ不幸な人間を嘲笑っているだけという事を隠そうと、今この文章を書いている。