書評

2021年6月号掲載

将棋が作家に求めるもの

芦沢央『神の悪手』

北野新太

対象書籍名:『神の悪手』
対象著者:芦沢央
対象書籍ISBN:978-4-10-101433-3

 2015年3月の夜、私は棋士の行方尚史と祝福の酒を傾けていた。
 無頼の影を残す勝負師は、翌月に開幕する名人戦七番勝負で名人の羽生善治に挑戦する権利を手にしていた。
 夜が深まり、二人とも酔い始めた頃に彼は言った。
「一緒に酒を呑む相手に僕が求めることはたったひとつなんですよ」
 え、なんですか、と訊いた。
「将棋を愛していること」
 史上最高の棋士との決戦に臨む男は酔っていても瞳の色は凜々しく、おざなりな言葉ではないと分かった。あの一言をなぜか今も忘れられずにいる。

 フィクションであれノンフィクションであれ、将棋という競技、棋士という人々について文章で伝えようとする時、必ず向き合わなければならない困難がある。野球や芸能、政治のように一般化された世界ではないため、専門誌でもない限り、特殊性を丁寧に噛み砕いて提出しなくてはならない。私自身、いつも悪戦苦闘を強いられている。
 障壁に背を向け、対局室で起きることや制度や歴史について書くことを避ける手段もあるが、本質からは遠ざかる。「羽生の▲5二銀」の深さから逃げることは「大谷の165キロ」の速さを捨てて二刀流の英雄について書くことと同義である。
 困難を突破するのは、難解な詰将棋を解く力ではない。将棋会館に通い詰める歳月でもない。結局のところ、最後の武器は「将棋を愛していること」なのだと思う。魅かれ、想うことは原動力になり、駆動力になる。細部に目を光らせる慎重さを備えさせ、何より、伝えたいのだという意志と熱量を生み出す。
 将棋を題材とした芦沢央さんの新作短篇集『神の悪手』を読みながら、私が思い出していたのは行方尚史の言葉だった。
 避難所の将棋大会で特別な才能と出会った棋士の内面を描く「弱い者」、詰将棋の作意から殺人の動機を浮かび上がらせる「ミイラ」、運命についての印象的な冒頭からタイトル戦での対局者心理に跳躍する「盤上の糸」。硬質な筆致は、将棋や棋士の美しさ、怖さに入り込む。「この場所には、自分と対局相手しかいない。この深海の色は、冷たさは、肌を震わせる化け物の咆哮は、自分たち二人しか本当には感じることはできない」(「盤上の糸」)のような文章は、理解と没入が融合しないと書けるものではない。
 表題作と最終篇が出色の完成度と思えた。罪を逃れるアリバイを証明するための一手と自らが信じる一手との間で揺れる奨励会員の物語「神の悪手」は、対局に臨む者に同化する迫力がある。自らの駒が晴れ舞台で採用されなかった理由を思い悩む駒師と大棋士の深遠を描いた「恩返し」は斬新な視点と丹念な取材により、将棋小説の新しい可能性を提示している。
 棋譜や符号を書く難関からも、作者は逃げなかった。計算の尽くされたバランスで「▲7二銀成」などと記しながらも読者を置き去りにせず、むしろ「▲7二銀成とは、どんな一手か」と盤上を想像させるのは、作家として磨き上げた技術の産物だろう。

 昨春、最初の緊急事態宣言が発令される前のこと。一介の将棋記者に過ぎない私に、ミステリー作家から「将棋の話を聞かせて下さいませんか?」という丁重な連絡があった。
 初めて会った芦沢さんに、私は勝手気ままな話を続けた。「将棋会館に来客がある時の羽生さんって、エレベーター前に立って出迎えて『日本将棋連盟の羽生と申します』って名刺を渡すんですよ。いやいや知ってますっていう話ですよね」。脈絡のない小話に、作家は物珍しそうに、興味深そうに耳を傾けていた。
 別れ際、芦沢さんが自分の追った夢のことを語ってくれた。棋士が将棋に寄せる思いに重ねたのかもしれない、と思った。高校生の頃に小説家になると誓ったこと、長年の苦節、夢に見た今を生きている幸福について。まるで二週間前に初めての小説を発表した新人のような表情のままに。「私はどうしても……どうしても小説を書きたかったんです」
 一年後、私の手元には一冊の本がある。将棋への想い、小説への想いが織り重なる作品である。

(きたの・あらた 報知新聞記者)

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