書評

2021年6月号掲載

令和日本のデザイン

先崎彰容『国家の尊厳』

先崎彰容

対象書籍名:『国家の尊厳』
対象著者:先崎彰容
対象書籍ISBN:978-4-10-610908-9

 僕らは、身の回りで起きている出来事を「常識」に従って判断している。例えば三日前に買った刺身の色が悪い。匂いも変だ。食べたら腹を壊すかもしれない。この時、色と匂いを参考に、僕らは危険を避けている。生き延びるために、人生で培ってきた「常識」を参照している。
 刺身と人生を並べるとは何とも大袈裟な話だが、政治や外交という生ものとなると、話は真剣さを帯びてくる。僕らは目下、三回目の緊急事態宣言の渦中にいて、「コロナ疲れ」あるいは「宣言慣れ」してしまっている。だが一回目の発令当時は、全く違う緊張感があった。新宿駅からは人が消え、僕らは要請に従っていたからだ。戦後初の緊急事態宣言発令を行ったのは、歴代最長政権の座にあった安倍晋三氏である。野党は宣言発令の可否をめぐり、発令以前は権力行使反対、発令後は後手の対策糾弾と、チグハグな批判に終始した。だが、こうした表面的な与野党の批判合戦を超えた視点、戦後日本全体を見渡す視点が必要だと、僕は考えていた。
 それが「戦後日本の常識」が通用しない時代が来た、という視点である。
 単純化して言えば、「戦後日本の常識」とは、二つに分けられる。第一に権力 vs. 市民という図式で政権批判をくり返すこと。第二に自由と民主主義というアメリカの価値観を自明視することだ。新型コロナ禍が僕らにとって深刻な事態なのは、この「常識」、戦後七〇年以上のあいだ、僕らが周囲の出来事を理解し、善悪の判断をくだしてきた「ものさし」が通用しなくなったことにある。
 いくつか例を挙げてみよう。例えば安倍政権は独裁政治を行っていると、くり返し批判されてきた。だが新型コロナ禍が明らかにしたのは、全く逆の事態であった。感染症対策の多くの権限は、実は地方自治体の長と各地域の保健所が行使できることになっている。つまりコロナ対策の主導権は、政府の側にはなく、地方自治体にあった。東京都知事や大阪府知事が連日、マスコミに登場するのも、彼らの判断が大きな影響力を持つからなのだ。
 また僕らは、コロナ禍の渦中で、アメリカ大統領選挙と、激しい米中対立を同時に目撃した。言うまでもなく、アメリカは自由と民主主義のリーダーである。しかしコロナ禍で明らかになったのは、自由と民主主義を重視する先進諸国が軒並み「ロックダウン」という強権発動を行い、中国同様の政策を強いられたことだ。自由と民主主義を「常識」とみなし、それを叫んでいるだけでは、もはや世界を正確に理解できない。そんな時代がやってきたのである。
 こうした、何ともシンドイ時代には、何が必要なのか。僕らはどんな「新たな常識」に切り替えていくべきなのか――「尊厳」というキーワードこそ、令和日本のデザインにふさわしい。こんな思いで『国家の尊厳』を世に問う次第である。

 (せんざき・あきなか 批評家/日本大学教授)

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