書評
2021年6月号掲載
フェア新刊 エッセイ
感動を語り伝えること
ドナルド・キーン『日本を寿(ことほ)ぐ九つの講演』
対象書籍名:『日本を寿ぐ 九つの講演』
対象著者:ドナルド・キーン
対象書籍ISBN:978-4-10-603865-5
父がニューヨークの住居を引き払い、完全に東京住まいになった2011年9月以降、私はすべての父の講演に同行した。押し寄せるように講演依頼があり、断ることが受けることより大変だった。2013年には、講演した数が二十四回に及んだが、たぶんこれが最高だろう。九十二歳にしてものにした講演数だ。
生涯どれほどの講演をしたことだろう。実は今調査中だ。興味深い事実が次々見えてくる。
初めての講演はケンブリッジ大学で、1952年春、二十九歳だった。五回連続で「日本の文学」について講じたが、毎回十人ほどの聴衆しかなく、日本文学からの転向を真剣に考えるほど落胆した。日本語での初めての講演は、京都大学留学のため来日してから四か月後の1953年(昭和二十八年)12月14日、京都の同志社大学で「比較文学について」だった。
生来の話好き、話のうまさ、構成力、ユーモアは回数を重ねる度に磨かれていっただろう。大学の講義においても、父の話がいかに魅力に満ちていたか、教え子たちから今もよく聞かされる。
講演の聞き手は、父が話し始める前からどんな話が聞けるのか、いつでもどこでも興味津々の様子だった。そして父が話すほどに聞き手はひきこまれていく。ユーモアのタイミングが絶妙で、エピソードは意外性に富んで面白い。父自身、「若いころはお金が欲しくて、講演をしました」と言っていたが、いつの間にか大学の授業と同じように好きになって、頼まれれば喜んで受けるようになったのだろう。そうでなければこれだけの回数はやれないだろうし、講演はいつも嬉しそうだった。講演後のサイン会も、「聞いてくださったお客様と直接会って一言でも話すことが僕は好きです」とよく言っていた。日本文学や日本文化の伝道師を体現することが責任でもあり、最大の楽しみだったと思う。
最近父の遺した生原稿を調べていると、これは明らかに講演の草稿と思われるものが相当量見つかった。いつのものか分かるものもあるが、ほとんどが不明だ。簡単なメモ程度から、かなり詳しく記述してあるものまで、罫線のない用紙(時には便箋の裏)などに横書きで、鉛筆か万年筆で書かれている。日本語にまじって英語のメモもある。小さい文字で、正確な本字で書かれた肉筆の草稿は、神聖なまでに純粋な情熱や繊細さで、それを見ているだけで父がなにかを語りかけてくるようだ。
ほんの最近偶然に発見したが、1988年9月に札幌で、「松浦武四郎を読んでみて」と題し講演する際に書いたに違いない草稿と、その参考文献『松浦武四郎紀行集』(上・中・下、冨山房、1975ー1977)が今私の手元にある。草稿の筆跡を見ても、また参考文献の傍線や英語のメモを見ても、一回かぎりの講演のためにいかに精魂込めて臨んだかを見て取ることが出来る。
1974年12月に金沢で「わが愛する鏡花」と題して講演した時の草稿はまだ見つかっていないが、その時に読み込んだことが明らかな『日本近代文学大系7 泉鏡花集』(角川書店、1970)にも、講演で語られた作品には、新聞の切れ端などが付箋がわりに挟まれ、克明に読み込んだ形跡が残されている。
正確にいつの頃かは分からないが、晩年にはワープロで書いた原稿を読むことも少しずつ増えてきた。読むだけとは言っても、時々原稿から目を離して聞き手に話しかけたり、機知に富んだ軽妙洒脱な話で聴衆の心を捉えることに長けていた。
最晩年、滑舌が悪くなったことを自ら意識しはじめたとき、父は私を前にして原稿を読む練習をするようになった。「分かりにくいところ、おかしいところがあったら教えてください。直してください」と私に言った。その謙虚さと責任感に頭の下がる思いだった。それを講演の数日前から毎日、時には二度も三度も私を前にして練習した。それだけでも、やっぱり父は並みの人ではないと思った。
私も専門分野である古浄瑠璃について三十分ほどだが講演することがあった。「お父さん、講演をするとき大事なこと、気をつけることはなんでしょう」と質問した。「それは自分自身が感動したこと、美しいと感じたこと、面白いと思ったことを、その時の気持ちをそのままに情熱をもって相手に伝えることです。そしてもうひとつ大切なことは、ユーモアがあることです」という答えだった。これも父の大切な遺言のひとつになった。