書評
2021年7月号掲載
小池真理子『神よ憐れみたまえ』刊行記念エッセイ
喪失と創作
対象書籍名:『神よ憐れみたまえ』
対象著者:小池真理子
対象書籍ISBN:978-4-10-144029-3
作家は、自分が書いたものを読んで泣くことがあるのだろうか。
考えてみれば、これまで同業の誰にも、この質問を投げてみたことがなかった。過去の作家たちが書いたものの中にも、自作を読んで泣いた、というエピソードがあった覚えはない。もしあったとしたら、たいそう珍しく感じて、忘れられずにいただろう。
恥ずかしい告白をする。先日、ほぼ十年にわたる歳月をかけて執筆した、書き下ろし長編小説『神よ憐れみたまえ』の再校ゲラの、著者校正作業に没頭し、最後の一行を読み終えた直後のことだ。
正真正銘、自分でもまったく予期していないことだったが、私はただならぬ感情に襲われた。膨れ上がった想いの中で、身動きができなくなった。目の前にある再校ゲラが涙で見えなくなった。嗚咽がこみあげ、文字通りの滂沱の涙が頬を伝った。
誤解なきよう、慌てて付け加えるが、それは何も、自分が書いた作品の出来上がり具合に感動したからではない。自作に感動して作家が大泣きする、ということがもしあったとしたら、あまりにも滑稽である。
人知れずささやかな満足感に浸ったり、執筆中の苦労を振り返ってしみじみしたり、一人静かに祝杯をあげたくなったりすることはあっても、書いた本人が嗚咽をこらえながら涙にむせぶ、ということはふつう、あり得ない。少なくとも私の場合、これまで一度もなかった。
ティッシュで涙を拭き、何度も洟をかみながら後ろを振り返ると、書斎のソファーで眠りこけていた二匹の飼い猫が首だけ起こし、目を大きく見開いて、いったい全体、何事か、という顔をしながら私を見ていた。
※
本書『神よ憐れみたまえ』に通じる、核となるような情景がふと浮かんできたのは、2010年ころだったと記憶している。構想とも呼べない、ただのぼんやりとしたイメージに過ぎなかったが、日をおいても、それは消えずに残された。
その前々年の2008年1月、暖炉の煙突火災が原因で、自宅が全焼。翌年、長くパーキンソン病を患っていた父が逝った。火事の後始末、新居建設、母はすでに施設暮らしだったので、無人になった実家の整理と解体、そして自身の引っ越しなど、私生活の大きな変化が数珠つなぎのようにしてやってきた時期だった。
にもかかわらず、と言えばいいのか。だからこそ、と言うべきなのか。私という作家の、それが本来の性分だったのだろうと思うほかはないが、書き下ろしで長編小説を書きたい、と強く思うようになった。
もともと長編は、可能ならば連載ではなく、締切を気にせずに存分に書ける書き下ろしにすることを好んできた。通常、作家が一生の間に小説を書き下ろすことができる時期は限られている。連載のかたわら、書き下ろしを執筆するとなれば、不屈の精神力、作家的持久力が問われてくるからだ。
2002年に上梓した『狂王の庭』(角川書店)以降、書き下ろしからはすっかり遠ざかっていた。もう一度挑戦したい、年齢的に言えば、書き下ろしはおそらく最後になるだろうが、それならそれで余計にやってみたい、という気持ちも強く働いた。
早速、新潮社の私の担当編集者にそのことを打ち明けた。新潮社では、私が直木賞を受賞した翌年にも、書き下ろし長編を書かせてもらっている(1997年刊『欲望』)。他の多くの出版社と異なり、新潮社の編集者が異動することはめったにない。長期戦になるとわかっている書き下ろし執筆に、それは何よりもありがたいことである。担当の男性編集者は即座に快諾してくれた。
当時も幾つか連載を抱えていたが、早ければ二、三年後には脱稿可能かもしれない、などと私は楽観していた。書き下ろしは何度も経験してきて、慣れてもいた。だから今回も、必ずや一気呵成に仕上げる時期に恵まれるはずだ、と思いこんでいた。
だが、2011年1月。早くも不穏な幕が上がり始める。私は不注意から自宅で転倒し、左足の甲の骨を骨折。車椅子と松葉杖の生活を余儀なくされた。重なるようにして、重度の認知症だった施設の母が、閉塞性動脈硬化症で右足先の壊死を起こした。母はただちに右の足を膝下から切断しなくてはならなくなった。
私が歩けない状態だったため、母の様子を見に行くことができなくなった。切断手術は無事に終わり、母はひと月余りで退院、施設に戻ったが、私の骨折の治療、リハビリには数か月かかった。その間中、連載を書くのが精一杯で、書き下ろしにとりかかることがままならなくなった。
そんな中でも、物語の構想は少しずつ固められ、全容がはっきりしてきた。翌2012年には、序章を書き始めるに至った。その年の11月、舞台にする函館を担当編集者と共に取材。イメージがより濃厚になり、大きな手応えを感じた。
しかし、年明けて2013年初頭。母に残された、もう一本の足にも壊死が始まった。やはり切断する以外、方法がない、と主治医に言われ、烈しく苦しみ抜いた。母は娘の私のことすらわからなくなっていたが、たとえ血管が詰まっていたのだとしても、彼女から両足を奪うことはできそうになかった。温存療法を選択し、私は妹と交代で、入院中の母に付き添うことになった。
恐れていた敗血症は免れながらも、口からの飲食ができなくなるのは早かった。日毎夜毎の衰弱は止めようもなくなった。その年の夏、母は多臓器不全をおこし、九十年の生涯の幕を閉じた。
書き下ろしにだけ溺れていたい、他のことは何も考えず、これだけを書き続けていたい、と願っているのに、いざ書き始めようとすると、何かが起こって書けなくなる、あるいは、次の連載が始まる時期がやってくる。そういうことが何年かにわたって繰り返された。
不思議だった。何かによって書くことを阻まれているのでは、と思いたくなることも多かった。やっと時間ができた、これで書き下ろしに専念できる、と勇んで原稿に向かおうとしたとたん、利き手である右手首に烈しい痛みを覚え、病院に駆け込んだこともあった。原因は不明だった。痛みが治まるまで何日もかかった。
2018年3月末。同業の夫、藤田宜永の肺に手術不能ながんが見つかった。放置すれば余命は半年、と告げられた。その瞬間、私の中を流れていた時間が停止した。あらゆる意味で人生が変わった。塗り変えられた。私は書き下ろしはもちろんのこと、ほとんどの仕事を中断する覚悟を決めた。書くことなど到底、できそうにない精神状態だった。
夫は治療の効果を得ることができて、いったんは好転の兆しをみせたが、小さなリンパ節に次々と転移が続いた。放射線治療を受けていたが効果は次第に薄れ、翌2019年8月には、恐れていた肺への再発が判明した。
治療の方法はかろうじて残されていたが、客観的に見ても希望は失われていくばかりだった。夫が元気でいられる間に書き上げてしまわないと、書き下ろし作品が永遠に完成しないであろうことは、火を見るよりも明らかだった。
他方、潔く諦めてしまうという選択肢もあった。作家としてもっとも辛く、やるせなく、自ら死を選ぶにも等しい選択としか言いようがないが、そうせざるを得なくなることもあろう。無念だが、それが今なのかもしれない、とも思った。
だが、私は、夫の看護をしている時以外の、すべての時間を未完だった本作を書くために使った。何かに憑依されているような気がした。必死だった。死に物狂いだった。その時期を逃したら、永遠に書き上げることはできない、諦めるしかない、とわかっていたからだろう。
加筆訂正やブラッシュアップが必要な箇所は膨大な数にのぼっていたが、それでも一応、一一〇〇枚の長大な作品を書き上げることができた。嬉しさよりも深い安堵だけがあった。パソコンからUSBメモリに落とした原稿をまとめて担当編集者に渡したのが、同年9月末。
直後から、夫の状態は芳しくなくなった。治療の効果も日に日に、目に見えて薄れていった。
年明けまもなく、主治医からは、残念ながら手だてがなくなった、桜の季節までだろう、と言われた。夫は桜どころか梅の花が咲き出す季節を前にして、帰らぬ人となった。地球全体に想像もしなかった未知のウイルスが蔓延し始めたのと、それはほぼ同時だった。
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三人称多視点で、黒沢百々子(ももこ)という一人の、恵まれていたはずの少女が、六十歳を過ぎるまでの波乱の人生を描いた。1963年11月、百々子の自宅で悲惨な事件が起こった瞬間から、まだ十二歳だった彼女は過酷な運命の渦の中に投げ込まれる。
私自身、この十年あまりの間に、近しい者たちの幾つもの死や病、深い喪失を通り過ぎてきた。百々子、という創作上の人物は、そんな作家の中で生まれるべくして生まれたとしか言いようがない。百々子を囲む大人たちも然り、である。
なお、本作では、昭和における最悪の鉄道事故、とも言われ、大勢の死傷者を出した国鉄の鶴見事故を物語上の重要なシーンとして扱っている。
実は私の母方の叔父は当時、同路線を使って通勤していて、不運にも事故に遭遇し、妻と幼い子らを遺したまま、若くして逝った。私は当時、十一歳。都内の小さな社宅で、両親と妹の四人で暮らしていた。母の代理で、父が遺体確認に出向いた時の様子や、事故が起きたのが小雨の降りしきる秋の晩であったことは忘れられない。
『神よ憐れみたまえ』というタイトルは、私が愛聴するバッハの『マタイ受難曲』の中の美しいアリアから拝借した。これ以上のタイトルはない、と自負している。