書評
2021年7月号掲載
Taro Yabe SPECIAL 矢部太郎『ぼくのお父さん』刊行記念特集
普通のお父さん、そうではないお父さん。
対象書籍名:『ぼくのお父さん』
対象著者:矢部太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-351214-1
四十年前の東京・東村山で暮らす四人家族。絵本作家のユニークな父と、しっかり者の母、可愛らしい姉と弟のごくごく私的な日常が淡々と描かれる。大きなドラマはない。ドラマとして描こうとすればできるエピソードも、淡々と描かれていると言ったほうが適切かもしれない。その点はベストセラーとなったデビュー作『大家さんと僕』と同様だが、今回は実の「お父さん」が相手だ。
世間離れした親族と少年の交流を描いた物語といえば北杜夫の『ぼくのおじさん』やジャック・タチ監督の映画『ぼくの伯父さん』が有名だが、血縁者ながら養育義務のない親族と、子の明日と命を左右する親では、子にとっての緊迫度が異なる。子どもながらに観察の目を光らせ「本当に大丈夫なのか?」と不安にもなる相手、それが親だ。
他人様の親御さんを捕まえて言うことではないが、なんともネタに事欠かないお父様だなと思った。子どもの頃から、周りの家の父親とは少し違うお父様に戸惑いつつ、たっぷり注がれる愛情を全身で受け止め、同時に「ゲームを買ってくれるような愛情でもいいんだけどなあ」とか「車があったほうがいいんだけどなあ」などと小さく憂う、素直な太郎くんの姿がいじらしい。
憶測の上に私事を重ねて恐縮だが、私も同じような戸惑いを感じて幼少期を過ごしてきた。我が家の場合は太郎さんのお父様とは真逆で、私の顔を見るたび「なんか欲しいものはないのか」とか「お金をあげようか」と言うような父親だった。友だちと一緒に遊んでくれるようなことは、一度もなかった。朝は私が学校に行く時間にはまだ寝ていて、夜は私が寝てから帰ってくるような父親だ。憎んだ時期もあったが、大人になったいまは穏便に付き合っている。しかし、太郎さんとお父様のエピソードを読んでいると、なんともうらやましい気持ちが湧き上がってくるのだ。
隣の芝生は青く見えるもので、私には矢部家の日常こそが、真に豊かな家族の象徴に見える。自然と親しみ、家事を担い、お金を掛けずに子どもとたっぷり遊ぶ理想的な父親。高度成長期にサラリーマンだった若者が会社を辞め、東京に出てくるところまではない話ではない。しかし、絵本作家を職業にするのは並大抵の才能では叶えられないことだ。牛乳パックを使ってお家を作ったり、テレビゲームに見立てた紙芝居を披露したり、土器を作成したりと、遊び方も非常にクリエイティブ。バブル景気にも踊らされず、自分軸で生きる尊さを感じずにはいられない。
というのは外野の放言でしかないことも、私は自身の育成環境から学んでいる。「あなたのお父さん面白いわね」と言われるたびに、「肉親じゃなければ、私もそう思うでしょうね」と悪態を吐きたくなるからだ。ねずみ花火は逃げ場のある外でやるから楽しいのであって、家の中では楽しめない。
それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。太郎さんのご家族にしてみたら、ヒヤヒヤすることも少なからずあっただろう。特に、お母様に相当の胆力がおありになると察する場面が多々あった。なんてことのない描写のなかに、一家をひとつにまとめて営んでいく気概と、俗に言う「普通」とは異なる伴侶を尊重し支えていく意志、家族の構成員としての夫に発破をかける頼もしさを感じた。僭越ながら、労いの言葉を掛けたい。お母様、本当によく踏ん張りましたね。
ところで、「普通」とはどういう状態を指すのだろう。年を重ねれば重ねるほどわからなくなっていく。誰にとっても「私の普通」が「みんなの普通」ではないことまでは体感として理解できたが、ならば「普通」はどこに存在するのか。一般的という言葉でも言い表される状態は、なにを指すのか。
太郎さんの時代で言うならば、父親は会社勤めで、母親は専業主婦もしくはパート勤め。きょうだいは二人以上で、マイホームやマイカーを所有することが一人前とされたはずだ。家族は仲が良く、子どもの非行や親の不貞などあってはならない。それが「普通」と呼ばれた時代。ここからひとつでもはみ出すと、良くも悪くも普通ではないとされる。普通ではないことは、凶兆をも意味する。しかし、それは間違っている。
俗に言う普通とは異なる家庭環境ながら、太郎さん一家は間違いなく幸せだ。私的な日常をこれだけ読ませるものにしたのは、著者である矢部太郎さんの眼差し、画力、構成力の賜物だが、それだけではない。矢部家に流れる温かな血潮が、じんわりとこちらの心を温めてくれるから、ページを繰る手が止まらないのだ。誰にも奪えない思い出こそが、真の財産だと私は信じている。その点で、矢部家は富豪である。