書評

2021年7月号掲載

脱ぎ捨てられない理不尽との対峙

佐藤厚志『象の皮膚』

小出和代

対象書籍名:『象の皮膚』
対象著者:佐藤厚志
対象書籍ISBN:978-4-10-354111-0

 痒い、は理不尽だ。
 痛いのも熱いのも痺れるのもすべて理不尽な苦しみだけれど、痒いと訴えたときはなぜか周囲にうっすらと笑いの気配が漂いがちで、それが理不尽さに輪をかける。痒みが酷ければ眠れないし、我慢できずに掻いてしまうと、今度は皮膚が破れて痛い。地獄である。
『象の皮膚』は、その理不尽さに長年苦しめられている女性が主人公である。
 五十嵐凜は、幼少時より、重度のアトピー性皮膚炎を患っていた。絶え間なく続く湿疹のために、皮膚は赤黒く、カサついている。同級生たちの白い肌とは違う、自分の「象のような皮膚」は、凜のコンプレックスだ。悪目立ちし、時にいじめの対象にもなった。それは家族間でも同じことで、たったひとり皮膚炎に苦しむ凜は、親兄弟から「気合いが足りない」などと、理不尽に罵られながら育つ。
 大人になった凜は、仙台の書店で契約社員として働き始める。子供の頃のように皮膚のことを露骨にあげつらう人は、職場にはいない。凜も長袖で肌を隠し、他人と距離を取っているので、少しはマシな状況になっているように見える。だが、今の凜を襲うのは、新たな理不尽である。小売・サービス業からは切り離したくても切り離せない、「困ったお客様」の嵐だ。
『象の皮膚』では、凜の子供時代の話と、現在の書店員としての奮闘が、交互に描かれる。どちらもなかなかヘビーな日常だが、痛々しい話の間に、奇妙な可笑しさも混ざっている。なんとも不思議な読み心地だ。第三十四回三島賞候補にもなった、注目の一作である。
 私自身、本屋に勤めていたことがあるので、凜が書店で経験する日々のアレコレには、逐一覚えがある。返品で無茶を言う人、気に入った女性店員にだけ接客させる人、転売屋、万引き、イベント整理券の配布問題......あるあるとうなずき過ぎて、赤ベコ化しそうだ。「書店には本当に、毎日こんなトラブルメーカーが押し寄せるのか?」と思われるかもしれないが、本当なのである。
 理の通らない人々と対峙した時でも、店員側がいきなり喧嘩腰になるわけにはいかない。「あいすみませんが、お客様......」と一応腰を低くしながら、NOを伝える。だがそれで素直に引き下がることはなく、あとは激昂、脅迫、罵詈雑言のフルコースである。来るぞ、と身構えていても、心が削られる。時にその理不尽は、現場を知らぬ経営者から降ってくることもある。
 作中で凜は、何度か自らを自動販売機になぞらえている。いちいち感情を動かさず、決められたことを忠実にこなす機械であることを、客からも会社からも求められていると感じていた。罵倒には頭を下げて、頭上を通りすぎていくのを待つのが結局一番早い。彼女がそう判断するのは、幼少期からの経験の積み重ねでもあった。「反抗してはいけない。怒鳴られるから。叩かれるから。謝った方が早く耐え難い会話から解放されるから」と、凜は自分の心を押し込め続けてきたのだ。
 難儀な客や上司に振り回される今の凜と、「象の皮膚」に振り回されてきた子供時代の凜の姿は、二重写しに見える。
 コンプレックスの源である肌を、凜はできるだけ人に見せたくない。だからできるだけ長袖で覆って隠し続けている。私を見ないで、と思っている。でもそうやって隠し続けているからこそ、自分を見てほしいという欲求も燻り続けていた。自分を押し殺して満足する人など、本来いるわけがない。正反対な欲求は水面下でぶつかり合って、時折りトプンと文章の波頭にあらわれる。
 凜の葛藤と呼応するかのように、彼女を囲む世界の理不尽さは、後半さらに加速する。震災が起き、世界が壊れ、日常を取り戻そうとする熱意が渦を巻き、非日常のアイドルを求める人々が暴走する。頭を下げてやり過ごすには、あまりに激しい嵐である。
 そんな中、凜が隠していたつもりのことが、職場中にとっくにバレていたと判明した。皆が承知していて、でも、誰もそれをあげつらわなかった。その事実を知った後、凜は突拍子もない行動に出る。「私を見て」の願望、解放への一歩とも読める、何とも大胆なワンシーンだった。
 今後も彼女は、己の皮膚や、それゆえの現状とつきあっていかなくてはならない。理不尽な客は減らないだろうし、家族関係もそう簡単には変わらないだろう。それでもまあ、彼女自身に少しだけ、ぽやぽやと芽生えたものがあるようだ。どうか育つといいな、と思うのである。

 (こいで・かずよ ライター/元・紀伊國屋書店新宿本店勤務)

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