書評

2021年7月号掲載

松田美智子『仁義なき戦い 菅原文太伝』刊行記念特集

菅原文太が演じる『老人と海』を観たかった

松田美智子

対象書籍名:『仁義なき戦い 菅原文太伝』
対象著者:松田美智子
対象書籍ISBN:978-4-10-306452-7

 私は菅原文太に会ったことがない。リアルタイムで観た彼の出演作は限られているし、もともと熱狂的なファンというわけでもなかった。それなのに、なぜ評伝を書こうなどと大それたことを考えたのか。思い返せば人生のいくつかのシーンで、文太との縁を感じるような出来事があった。
 最初のきっかけは『仁義なき戦い』シリーズのメインキャストである金子信雄が主宰する劇団に所属したことだった。私はここで松田優作と出会い、2年後には退団したのだが、1973年1月に『仁義なき戦い』が封切られたとき、金子の芝居を観るために映画館に足を運んだ。それまで文太のことは高倉健の任侠映画に脇役で出演していた俳優くらいの認識だった。だが、同作で主役の広能昌三を演じた文太の存在感は鮮烈で、深く印象に残った。
 次は少し時間が飛ぶ。1978年暮れ、新宿の紀伊國屋書店で工芸村・オークヴィレッジの展示会が開催された。私はその最終日に出かけ、木製の筆箱などの文具製品を購入した。同日、文太と文子夫妻が終了間際の時間に訪れ、売れ残った家具類を買い求めている。2、3時間の差で夫妻とすれ違っていたことは後で知った。
 3番目は深作欣二監督と文太が最後に組んだ『青春の門』(1981年)だ。実は優作主演の作品が用意されていたが、本人が断ったため、急遽『青春の門』が浮上したのだ。出演した文太から『仁義なき戦い』のときのギラギラ感は消えて、無骨だが男気のある炭鉱夫を演じていた。この先、どう変化するのか、また彼の出演作を観てみたいと思った。
 4番目は2001年の悲劇的な出来事だった。当時私は小田急線の東北沢に住んでおり、買い物はいつも下北沢まで出かけていた。駅へ向かう途中で渡る踏切で列車事故があり、死亡したのは文太の長男の菅原加織だと知った。一人息子を失った文太が「もう俳優をやめたい」と話していることが伝わってきたときには、気持ちが騒(ざわ)めいた。『青春の門』から20年、文太の変化を観たいと思ったはずなのに、映画館から足が遠のいていた。
 同時に思い出したことがある。舞台の大道具の仕事をしている男性から聞いた話だ。彼は昔、東映京都撮影所で働いていたが、薬物の使用が理由で解雇された。撮影所を去る日、世話になった人に挨拶をして回ったところ、高倉健には完全に無視されたが、菅原文太は「妻子がいるんだろ? 身体は大事にしろよ」と声を掛けてくれたという。
 この頃からだ。私が積極的に文太の出演作を観るようになったのは。ほとんどはDVDに収録されているもので、『仁義なき戦い』シリーズはもちろんのこと、『木枯し紋次郎 関わりござんせん』『人斬り与太 狂犬三兄弟』『山口組外伝 九州進攻作戦』『県警対組織暴力』『映画女優』など繰り返し観たものも多い。
 また、間接的な縁だが、私の著作が原作になった映画『完全なる飼育』シリーズの中に深作健太監督作品がある。父の深作欣二監督の臨終の場には文太が立ち合っており、そのときの情景を健太監督から聞くことができた。
 そして2014年11月28日、文太81歳で逝去。逝去の1カ月前、私は目白の「椿山荘」で、文太が営む農園から送られてきたという有機無農薬野菜のサラダを食べたばかりだった。俳優を引退し、本当に農業従事者になったのだな、と感慨深くプチトマトを口に運んだ記憶がある。
 偶然の連なりを列挙したが、なにより決定的な動機となったのは、一世を風靡した俳優にもかかわらず、死後3年が過ぎても文太の評伝が書かれていなかったことである。それならば「私が書きたい」と強く思った。
 また、私はこれまで『サムライ 評伝三船敏郎』、『越境者 松田優作』と2作の評伝を発表してきた。三船は1920年生まれ、優作は1949年生まれで、30年近くの世代差がある。その間を埋める俳優を描くことを想定したとき、1933年生まれの文太しか考えられなかった。
 評伝は俳優・菅原文太に焦点を絞った。彼は晩年になって政治的な発言をするときも『仁義なき戦い』の名台詞「弾はまだ残っている」を口にした。自分をスターに押し上げた台詞が人生訓になっていたのだ。長男が生きていれば、バックアップするために最後まで俳優でいただろう。
 今、評伝を書き終えて思うのは、文太が映像化を希望した『老人と海』を観たかったということだ。彼が演じる白髪の漁師は、滋味深い男の哀歓を感じさせたに違いない。

 (まつだ・みちこ ノンフィクション作家/小説家)

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