書評

2021年7月号掲載

新潮文庫『クイーンズ・ギャンビット』刊行記念特集

クイーンズ・ギャンビット(抄)

Netflixで6200万回の再生数を記録し、ゴールデングローブ賞二冠に輝いた、超大ヒットドラマの原作、待望の邦訳がついに刊行!

対象書籍名:『クイーンズ・ギャンビット』(新潮文庫)
対象著者:ウォルター・テヴィス/小澤身和子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-240171-2

〈ここまでのあらすじ〉
 自動車事故で母を失った八歳の少女ベスは、メスーエン・ホームという孤児院に預けられた。慣れない環境に戸惑うベスだが、彼女の運命を大きく変える「チェス」に出会うことになる――。

 毎週火曜日、グラハム先生は算数の授業が終わると、黒板消しを掃除させるためにベスを地下室に行かせた。ベスはクラスで一番年下だけど一番優秀だったので、それは特権としてみなされていた。地下室は好きではなかった。かび臭かったし、シャイベルさんが怖かったのだ。でも彼がひとりでプレーしていたボードゲームについて、もっと知りたかった。
 ある日ベスはシャイベルさんのところに行くと、そばに立って、彼が駒を動かすのを待っていた。彼が触っている駒は、小さな台の上に馬の頭がついている。すぐにシャイベルさんは顔を上げて、不機嫌そうに眉をひそめながらベスを見た。「何か用か、お嬢ちゃん」
 ベスはいつもなら人と遭遇したらすぐ逃げるのに(それが大人なら尚更だった)、この時は逃げ腰にならなかった。「なんていうゲームなの?」と彼女は尋ねた。
 シャイベルさんはベスをじっと見た。「他の子たちと一緒に上にいなさい」
 ベスは彼をまっすぐに見つめた。この男から感じる何かと、彼が不思議なゲームをひるむことなくプレーする姿がベスの背中を押した。「他の子たちと一緒になんていたくない」と彼女は言った。「何のゲームをやっているのか知りたいの」
 シャイベルさんはベスをじろりと見ると、肩をすくめた。「チェスだ」

 シャイベルさんと火炉の間には、黒いコードから裸電球がぶら下がっていた。ベスは自分の頭の影がボードにかからないように気をつけた。日曜日の朝だった。上の階の図書室では礼拝が行われている最中で、ベスは手を挙げてトイレに行く許可をもらってここに降りてきたのだ。彼女はずっと立ったまま、十分間、用務員がチェスをするのを見ていた。どちらも口を開かなかったが、シャイベルさんはベスがそこにいてもいいと思っているようだった。
 彼は身動きせずに、一手ごとに何分間か、まるで憎んでいるみたいに駒を見つめた。それからお腹に載せていた腕を伸ばして、一つの駒の先端を指先でつまみ上げると、死んだネズミのしっぽを持つみたいに少しの間そのままでいてから、別のマスの上に置いた。顔を上げてベスを見ることはなかった。
 ベスはコンクリートの床の足元に頭の影を黒く映しながら、目を離さずにボードをじっと見ていた。一つの動きも逃さないように。
 ベスは夜まで安定剤を取っておくようになっていた。そうすると眠りやすくなるのだ。ファーガソンさんから受け取ると、その楕円形の錠剤を口の中に入れたまま舌の裏に隠して、一緒に渡された缶入りのオレンジジュースを一口すすって飲み込む。彼の関心が次の子どもに移ったら、口から錠剤を取り出して、水兵服のような襟がついたブラウスのポケットの中に滑り込ませるのだ。薬は硬くコーティングされているので、舌の裏に隠しても柔らかくはならなかった。
 最初の二ヶ月間、ベスはほとんど眠れなかった。なんとかして眠ろうと、目を硬く閉じてじっと横になっていたけれど、他のベッドの女の子たちが咳をしたり、寝返りを打ったり、ボソボソと話をしたりする声が聞こえたし、夜番のスタッフが廊下を歩く影がベッドに映ると、目を閉じていてもその影が見えた。遠くで電話が鳴る音や、トイレの水が流れる音がした。中でも最悪なのは、廊下の隅にある机で話をしている人たちの声だった。夜番のスタッフがどれだけ囁くように話していても、その声がどれだけ心地よい響きでも、聞こえてくるとベスの体は硬直して、ぱっちり目が覚めてしまうのだ。胃が収縮して口の中に酸っぱい味がしはじめると、その夜はもう眠れなかった。
 でも今ではベッドに気持ちよく寝ころがって、スリルを覚えながら、あえて胃が引き締まってくるのを待っていた。すぐにその感覚は消えてしまうとわかっているのに。暗闇の中でひとりきり、自分自身を観察しながら、体の中の雑然としたものが最高潮に達するのを待つ。それから例の薬を二錠飲んで、ゆったりした感覚がなまぬるい波のように体全体に広がっていくまで、仰向けになっていた。

「やり方を教えてくれない?」
 シャイベルさんは何も言わなかった。首を動かして質問されていることに気付いたふりすらしなかった。上の階の遠くの方からは賛美歌「春の朝(あした) 夏の真昼」を歌う声が聞こえた。
 ベスは数分待った。そして言葉を口にしようとして喉が詰まりそうになるのを、無理やり押し出して言った。「チェスを教えてほしいの」
 シャイベルさんは肉付きの良い手を大きな黒駒に向かって伸ばして、その頭を器用に持ち上げると、ボードの反対側のマスに置いた。それから手を戻して、腕を組んだ。彼はまだベスの方を見ていなかった。「知らないやつとはやらない」
 その抑揚のない声は、顔をぴしゃりと叩かれたのと同じくらいの効果があった。ベスは踵を返すと、後味の悪い思いで階段を上がって行った。
「私は知らないやつじゃない」。二日後、ベスはシャイベルさんに言った。「ここに住んでる」。彼女の頭の後ろでは、裸電球の周りで小さな蛾が円を描いていて、その淡い影が一定の間隔でボードに映っていた。「教えてよ。見ていたから、少しはわかる」
「女の子はチェスをやらないものだ」。シャイベルさんの声は単調だった。
 ベスは覚悟を決めて一歩ボードに近づくと、頭の中で「大砲」と名付けた円柱形の駒を触らないように気をつけながら指さした。「これは前か後ろに動く。動けるスペースがあればずっと」
 シャイベルさんはしばらく黙ったままだった。でもやがて、てっぺんに切れ目を入れたレモンのような形をした駒を指さして言った。「これは?」
 ベスの心は跳ね上がった。「斜めに動く」

 夜は一つしか飲まないでいて、もう一つを取っておけば薬は貯めておくことができた。ベスは取っておいた錠剤は歯ブラシ入れの中に入れるようにしていた。そこなら誰も見ない。ただ歯ブラシを使い終わったら、紙ナプキンでできるだけ乾かしておかないといけなかった。初めから歯ブラシを使わずに指で歯を磨くこともあった。
 その夜は、初めて続けて三錠飲んでみた。うなじにチクチクした細かい痛みが走った。何かとても大事なことを発見したのがわかった。折りたたみ式ベッドの上で、色あせた青色のパジャマを着て横になりながら、体中にほてりが駆け抜けていくのを感じた。ベスのベッドは女子寮の中でも最悪な場所――廊下へ通じるドアの近くで、トイレの向かい――にあった。人生における何かがはっきりとしたような気がした。チェスの駒のことや、それがどうやって動いて攻略するのかを知ったし、緊張で強張った胃や、腕や脚の関節のほぐし方を知った。孤児院がくれる薬が教えてくれたのだ。

「わかったよ、お嬢ちゃん」とシャイベルさんは言った。「チェスをやろう。私が白だ」
 ベスは黒板消しを持っていた。算数の授業の後で、もう十分もすれば地理の授業がはじまる。「あんまり時間がないの」と彼女は言った。先週の日曜日の礼拝の時間に、地下に来ることができたので、駒の動きは全部学んでいた。一度顔を出しさえすれば、礼拝の間にベスがいないことは気付かれなかった。町の向こう側にある〈チルドレンズ〉という施設から女の子たちが集団でやってきていたからだ。でも地理の授業は違う。ベスはそのクラスで一番優秀だったけれど、シェル先生のことをひどく恐れていた。
 シャイベルさんは何の抑揚もない声で言った。「今を逃したらもうないぞ」
「地理の授業が......」
「やるなら今だ」
 ベスは一瞬考えたが、すぐに決めた。牛乳を運ぶための古い木箱が火炉の後ろにあったはずだ。ボードの反対側まで箱を引きずってくると、その上に座って「どうぞ」と言った。
 彼は四手後、ベスが後に「スコラーズ・メイト」(初心者のメイト)だと知る手で彼女を負かした。速かったけれど、ベスが地理の授業に十五分も遅れずに済むほど速くはなかった。ベスはトイレに行っていたと説明した。
 シェル先生は両手を腰に置いて、机の前に立っていた。彼はクラス全体を見渡して言った。「お嬢さん方の中に、この子が化粧室にいるのを見かけた人はいるのかな?」
 押し殺したようなクスクス笑いが聞こえた。手は挙がらなかった。ベスが二回も嘘をついてあげたジョリーンですら手を挙げなかった。
「それではあなた方の中で、授業の前に化粧室にいた人は?」
 クスクス笑いは大きくなって、三人の手が挙がった。
「そのうちベスを見かけたのは? きっとかわいい手を洗っていたんじゃないかな?」
 手は挙がらなかった。シェル先生は黒板の方に向き直った。アルゼンチンの輸出品一覧を書いていたところだったのだ。そしてそこに「銀」という言葉を付け足した。一瞬ベスはもうこの話は終わったと思った。でも彼はクラスに背中を向けたままこう言った。「減点五点」
 減点が十つくと、教室の後ろで革紐で叩かれることになっていた。ベスはその革紐を想像の世界でしか体験していなかったが、一瞬想像が広がって、体の柔らかい部分に火をつけられたような痛みを覚えた。ベスは心臓のあたりに手を当てて、ブラウスの胸ポケットの底にその朝もらった薬があるのを確認した。するとみるみるうちに恐怖は和らいでいった。歯磨き入れのことを想像してみた。プラスチックの長方形の容器。今はあと四錠入っている。折りたたみ式ベッドの傍にある、金属製の小さなテーブルの引き出しの中だ。
 その夜、ベスはベッドに横になっていた。薬は握りしめたままでまだ飲んでいない。夜の騒音に耳をすましていると、目が暗闇に慣れてくるにつれて音が大きくなっていった。廊下の先では、バーン先生がホランドさんに話しかけている。机のところだ。それを聞くと、ベスの体は緊張で張り詰めた。まばたきをしてから、頭上の暗い天井を見て、なんとかして緑と白のマス目がついたチェス盤を見ようとした。それから駒を初めの位置(ホームスクエア)に並べはじめた。ルーク、ナイト、ビショップ、クイーン、キングを置いて、それからその前の段にポーンを並べていく。それが終わると、白のキング・ポーンを四段目まで進めて、黒のキング・ポーンも前進させた。できた! 簡単だった。そんなふうに、ベスは負けたゲームをもう一度再現していった。
 シャイベルさんのナイトを三段目まで進めた。ベスの頭の中には、寮の天井に緑と白のボードがあって、その上には駒がはっきりと見えていた。
 騒音はもう白い調和の取れた背景に溶け込んでいた。ベスは幸せな気持ちでベッドに横たわりながら、チェスをしていた。

 次の日曜日、ベスはキング・ナイトで「スコラーズ・メイト」を阻止した。ゆうべは、怒りや屈辱といった感情がなくなって、駒とボードだけが残るまで、頭の中でそのゲームを百回繰り返した。シャイベルさんとプレーするために地下室に行った時には、ありとあらゆる手を考え尽くしていて、夢の中にいるみたいにナイトを指した。その駒の小さな馬の頭を掴む感触が好きだった。ベスがナイトをマスの上に置くと、シャイベルさんはそれを見て顔をしかめた。彼はクイーンを掴むと、キングにチェックをかけた。でもベスはその指し手に対しても準備ができていた。前日の夜に、ベッドの中でその場面を見ていたのだ。
 シャイベルさんは十四手でベスのクイーンをハメ手(トラップ)にかけた。彼女はクイーンを取られても、その致命的なロスを見て見ぬ振りをしながらプレーを続けようとしていた。が、彼は腕を伸ばして、ポーンを動かそうと手を伸ばしたベスを止めた。「投了するんだ」。その声は荒々しかった。
「投了?」
「そうだ、お嬢ちゃん。こんなふうにクイーンを取られたら、投了するんだよ」
 ベスは理解できずに彼を見つめた。シャイベルさんはベスの手を放すと、彼女の黒のキングを取ってボードの上に倒した。少しの間駒は前後に転がっていたが、やがて動かなくなった。
「いやだ」とベスは言った。
「いいや、君は投了したんだ」
 彼のことを何かで殴りつけてやりたかった。「そんなルールは聞いてない」
「ルールじゃない、スポーツマンシップだ」
 ベスは彼が言わんとしていることはわかったが、気に入らなかった。「最後までやりたい」と言って、キングを拾ってマス目に戻した。
「だめだ」
「最後までやる」とベスは言った。
 シャイベルさんは呆れたように眉を上げると、立ち上がった。ベスは彼が地下室で立っているところを一度も見たことがなかった。唯一立っているのを見たのはホールでモップをかけていたり、教室の黒板を掃除したりしている時だけだ。地下室の低い天井の梁に頭をぶつけないように、彼は少し身をかがめた。「だめだ」とシャイベルさんは言った。「君の負けだよ」
 そんなのは不公平だ。わたしはスポーツマンシップなんかに興味はないし、ただプレーをして勝ちたいだけ。ベスはこれまでにないほど強く勝ちたいと思った。そして母親が死んで以来一度も使ったことのない言葉を口にした。「お願いします(プリーズ)」
「ゲームオーバーだ」とシャイベルさんは言った。  ベスは強い怒りを感じながら彼をじっと見つめた。「がめつくナニでも......」
 するとシャイベルさんは両腕を体の脇に下ろして、ゆっくりとこう言った。「もうチェスは終わりだ。出ていけ」
 もっとわたしが大きければよかったんだ。でも現実は違う。ベスはボードから立ち上がると、階段まで歩いていった。その間シャイベルさんは、黙ったまま彼女を見ていた。

 火曜日、ベスが黒板消しを持って廊下の先にある地下室へ続くドアまで行くと、鍵がかかっていた。お尻を使って二回押してみたけれど、びくともしなかった。ノックしてみた。初めは優しく、それから大きな音をたてて。でもドアの向こう側からは何の音もしなかった。最悪だ。中ではシャイベルさんがひとりでボードの前に座っているはず。前のことを怒っているに違いない。でもベスにはどうすることもできなかった。黒板消しを持って戻ると、グラハム先生はそれがきれいになっていないことや、ベスがいつもよりも早く戻ってきたことにすら気付かなかった。
 木曜日、ベスはきっと同じことだろうと思っていたけれど、違った。ドアは開いていて、階段を降りていくとシャイベルさんは何事もなかったかのように振る舞った。駒はすでに並べられている。ベスは急いで黒板消しをきれいにしてから、チェス盤の前に座った。シャイベルさんはもうすでにキング・ポーンを指していた。彼女はキング・ポーンを二マス先に進めた。今回は絶対に失敗したりしない。
 彼はその指し手にすぐに応え、ベスも即座に指した。ふたりは互いに何も話さないまま、ただ駒を動かし続けた。ベスは緊張していたけれど、その感覚はいやではなかった。
 二十手目で、シャイベルさんが間違ったタイミングでナイトを進めたので、ベスはポーンを六段目まで進めることができた。彼はナイトを後退させるという無駄な手を指し、それを見てベスは興奮した。そのナイトとビショップを交換すると、彼女は次の手でまたポーンを進めた。次に指す時には、ポーンはクイーンに昇格できる。
 シャイベルさんはそれを見ると、怒ったように腕を伸ばしてキングを横に倒した。ふたりとも何も言わなかった。ベスの初めての勝利だった。あらゆる緊張がほぐれていき、ベスはこれまでの人生で味わったことのない素晴らしい感覚が、体じゅうに広がっていくのを感じた。

 毎週日曜日は、昼食を抜いても気付かれなかった。誰も気に留めていなかったのだ。そうしてシャイベルさんと三時間、彼が二時半に帰宅するまでの間を一緒に過ごした。ふたりとも話はしなかった。彼はいつも白駒を使って最初に駒を動かし、ベスはいつも黒駒だった。それについて質問してみようとも思ったけれど、結局訊かないことにした。
 ある日曜日、かろうじてシャイベルさんが勝ってゲームが終わると、彼はこう言った。「『シシリアン・ディフェンス』について学ぶといい」
「何それ?」。ベスはイライラしながら訊いた。
 まだ負けたことを引きずっていたのだ。でも先週は二回彼を打ち負かした。
「白がポーンをクイーンの4に動かすと、黒はこうする」。シャイベルさんは腕を伸ばして、白のポーンを二マス前に進めた――いつもきまって彼が指す最初の一手だ。それから黒のクイーン・ビショップのポーンを取って、中央に向かって二マス進めた。彼がこんなふうに見せてくれるのは初めてだった。
「それから?」とベスは言った。
 シャイベルさんはキング・ナイトを取って、動かしたポーンの右下に置いた。「ナイトをKB3」
「KB3って?」
「キング・ビショップの3。私が今ナイトを置いた場所のことだ」
「マス目に名前があるってこと?」
 シャイベルさんは無表情で頷いた。ベスは彼がそんなことすら教えるつもりがないのを感じとった。「うまくなったら、わかる」
 ベスは身を前に乗り出して言った。「教えてよ」
 シャイベルさんは彼女を見下ろした。「――今はだめだ」
 ベスは猛烈な怒りを覚えた。人は秘密を隠しておきたいものだというのは十分わかっていたし、自分にも秘密にしていることはある。それでもボードの上に身を乗り出して、彼の顔に平手打ちを食らわせて、無理矢理にでも説明させてやりたかった。ベスは息を吸い込んだ。「これが『シシリアン・ディフェンス』なの?」
 シャイベルさんはベスがマス目の名前から話題を逸らしたことに、ほっとしたようだった。「他にもある」と言うと、続けて基本的な駒の動きやバリエーションをいくつか見せてくれた。でもマス目の名前は使わなかった。「レヴェンフィッシュ・バリエーション」や「ナイドルフ・バリエーション」をやってみせると、ベスに再現するように言った。彼女はそれを一つもミスしないでやってのけた。
 でもその後ふたりがプレーをすると、シャイベルさんはクイーン・ポーンを前進させた。ベスはすぐに、さっき教わったことは目の前の状況には何の役にも立たないと察して、チェス盤越しにシャイベルさんを睨みつけた。ナイフがあれば彼を刺してやれたのに。それからボードに目を戻すと、クイーン・ポーンを進めた。絶対に打ち負かしてやると心に決めていた。
 シャイベルさんはビショップの前にあるポーンを、クイーン・ポーンの隣に動かした。これまでも彼がよく使ってきた手だった。「それもさっき話していたものの一つなの? 『シシリアン・ディフェンス』みたいなもの?」とベスは尋ねた。
「オープニングだよ」。彼はベスを見ることなく、その目はボードを見据えている。
「オープニングって?」
 彼は肩をすくめた。「『クイーンズ・ギャンビット』だ」
 ベスは気分が良くなった。シャイベルさんからまた一つ学んだ。彼女は差し出されたポーンは取らないことにして、ボード上の緊張感を残したままにした。これでいい。それぞれの駒が持つ力、縦の列と斜めの線に沿って発揮される力が好きだった。ゲームが進んで至る所に駒が置かれているのを見ると、ボードを十字に交差する駒の力にゾクゾクした。ベスはキング・ナイトを手に取ると、その力が広がっていくのを感じた。
 二十手目で、ベスがシャイベルさんのルークを両方取ると、彼は投了した。

 ベスはベッドの上で寝返りを打ってうつ伏せになると、廊下へ通じるドアの下から漏れてくる光を遮るために、頭の上に枕を載せて、ビショップとルークをどんなふうに使えばキングに唐突にチェックをかけられるのか考えはじめた。もしビショップを動かしたら、キングにチェックをかけられるし、その次の手でビショップを自由に動かせるようになる――クイーンを取れるかもしれない。彼女はかなり長い間ベッドで横になったまま、興奮した気持ちでこの強力な攻撃方法について考えていた。それから枕を外すと仰向けになって、天井にチェス盤を描き、シャイベルさんとやった対局を全部もう一度最初からひとつずつやってみた。たった今発見したばかりの、ルークとビショップの局面を作れたかもしれない場面を二箇所見つけた。一つは、二駒を同時に狙うことで無理やり作れたかもしれず、もう一つは、相手に気付かれないうちにそう仕向けられたかもしれなかった。新しい指し手を試しながら、頭の中でその二局を再現すると、その両方で勝った。ベスはひとりで嬉しそうに微笑(ほほえ)むと、眠りについた。

 算数の教師はベスには休憩が必要だと言って、他の生徒に黒板消しの掃除を頼むようになった。そんなの不公平だ。わたしの算数の成績は今でもパーフェクトなのに。でもどうすることもできなかった。毎回、小さな赤毛の男の子が黒板消しを持って部屋を出ていく時、ベスは教室で座ったまま、意味のない足し算や引き算の問題を手を震わせながら解いていた。毎日猛烈にチェスがやりたかった。
 火曜日と水曜日は、一錠だけ薬を飲んでもう一錠は取っておいた。木曜日には、頭の中で一時間ほどチェスをやった後に眠ることができたので、その日の分の二錠を取っておけた。金曜日も同じようにした。土曜日は一日中、食堂のキッチンを手伝う間も、午後に図書室で行われるキリスト教映画の上映会の間も、夕食の前に自己向上のための話を聞く間も、歯ブラシ入れの中にあの薬が六錠入っていると思うと、いつでもちょっとした高揚感を味わえた。
 その夜、電気が消えると、ベスは薬を一錠ずつ全部飲んで待った。あの感覚がやってくると、お腹の中に優しい甘さみたいなものが広がって、体の緊張した部分がほどけていくようで心地よくなった。自分の体の中の温かさ、奥の方に広がっていく、化学作用がもたらす幸福感を十分に味わおうと、できるだけ長い間目を開けたままにして眠らずにいた。
 日曜日、シャイベルさんにどうしていたのかと尋ねられると、ベスは彼が気にかけてくれていたことに驚いた。「授業を抜け出させてもらえなくて」と彼女は言った。
 シャイベルさんは頷いた。チェス盤はすでに準備されていたが、牛乳箱はいつもの場所に置かれているのに、白駒が自分の方を向いていることにベスは驚いた。「わたしが最初に指すの?」。疑うような声でそう訊いた。
「そうだ。これからは順番でやる。本来はそうやってプレーするものなんだ」
 ベスは席につくと、キング・ポーンを動かした。シャイベルさんは無言でクイーン・ビショップのポーンを動かした。彼女は指し方を忘れていなかった。チェスの手は忘れるわけがない。彼は「レヴェンフィッシュ・バリエーション」を指した。ベスはシャイベルさんのビショップが長い対角線上を支配するのを目で追った。飛びかかるのを今か今かと待っているようだった。十七手目で制する手を見つけた。ベスは彼のビショップと自分の弱いビショップを交換すると、ナイトを前進させて、ルークを動かし、そこから十手でメイトにした。
 簡単だった――目を開けたまま、ゲームの行方を頭の中で描くだけだった。

〈このあとのあらすじ〉
 十三歳でウィートリー夫人に引き取られたベスは、初めて出場したチェス大会で優勝したことを皮切りに、男性優位のチェス界でめきめき頭角を現す。孤児院で与えられた安定剤に加え、あらたに覚えたアルコールへの依存とも闘いながら頂点を目指すベスだったが、早熟の天才ベニー・ワッツ、そして最強のグランドマスター、ボルゴフがその行く手に立ちはだかる。

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