書評

2021年7月号掲載

循環し、再生することばたち

谷川俊太郎『さよならは仮のことば 谷川俊太郎詩集』(新潮文庫)

尾崎真理子

対象書籍名:『さよならは仮のことば 谷川俊太郎詩集』(新潮文庫)
対象著者:谷川俊太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-126625-1

 冒頭、「ネロ」と再会する。この詩が愛された小犬に捧げられたのは、1950年6月5日。
「二十億光年の孤独」「朝のリレー」「生きる」。〈本当の事を云(い)おうか〉の「鳥羽1」、「かっぱ」「いるか」、〈ぼくもういかなきゃなんない〉と始まる「さようなら」。馴染み深い詩が生まれた順に、頁(ページ)の向こうからやってくる。
「芝生」「母を売りに」「理想的な詩の初歩的な説明」――この詩人を知るのに重要な代表作、長編詩「メランコリーの川下り」「詩人の墓」を全文読めるのもありがたい。「百三歳になったアトム」の横には、おっと、〈おれ死にてえのかなあ〉と終わるあの、伝説の快作が。新潮社版「谷川俊太郎詩集」の一〇五篇は、なんとも充実した一冊だ。
「谷川俊太郎詩集」と銘打ったアンソロジーは、この半世紀のあいだ、さまざまな出版社が繰り返し企画し、大量に刷られてきた。朔太郎や中也だってこうはいかない。ご本人は選集に収録される作品については毎回、「おまかせ」なのだから、いきおい編集者と時代の求める雰囲気がそのつど映し出されることになる。すでに作品数は八〇〇〇を超え(誰も正確にはわからない)、米寿を迎えた昨年は、『ベージュ』という名のスタイリッシュな新詩集が刊行された。その上、毎月、新作を新聞や雑誌に発表し続けているのだから、アンソロジーの更新は必然であり、「谷川俊太郎詩集」はこの先も編まれるはずであるけれど。
 かく言う私も、三年がかりで谷川さんに話を聞いて完成させた四年前の共著『詩人なんて呼ばれて』で、一〇〇に近い詩を挙げながら、評する機会を得ている。この時は伝記的な内容に沿って、七〇年に及ぶ創作の変遷や個人的背景を伝える作品を集める方に傾いたが、今回の新潮文庫版を見渡すと、対照的に、作者の年齢や時代を限定するような詩はあまり見当たらない。ふと、せつなを見つめ、無限を想う――。詩人の本質が表われた詩が、頁をめくるほどに増えていく。
〈すぐにすぎさってしまうから いまはせつない
 れきしのほんがとりおとすせつなを
 わたしはとりあえずいきています〉
 これは2018年刊のひらがな詩集『バウムクーヘン』中の「せつな」からの一節。
〈廊下を猫が歩いて行く夢を見た
 私は死後のような気分
 脈絡がないが不安ではない
 目覚めたら外は小雨〉
〈ヒトの耳目に入る物事は
 星の数ほどあるが
 耳目に無縁な物事は
 一つしかない〉
 どちらも最新詩集『ベージュ』中の長編詩「蛇口」から。今回、巻末の解説でフランス在住の俳人、小津夜景さんが述べている通り、江戸期の良寛が作った漢詩にみられる端正な工芸性と、谷川詩の〈天使的な機知や無垢(むく)性〉とは、たしかに通じ合うものがある。
 そして、もう一度最初に戻って読み始めると、この詩人は最初から晩年の達観を生きていたのだと気づく。
〈在ることは空間や時間を傷つけることだ
 そして痛みがむしろ私を責める
 私が去ると私の健康が戻ってくるだろう〉
   (『六十二のソネット』中の「41」)
 どうしてこんな深淵なことばが、二十歳過ぎの青年のもとにある日、舞い降りてきたのだったか。
 この晩年性はせつなを凝縮させながら、無数の胞子を惜しみなく放散してきた。よって、何度も読んだはずの詩の中にも、森でめずらしいきのこを発見した時みたいに、声をあげて皆に知らせたくなることばがそこかしこに再び、あらたに顔を出している。表題の『さよならは仮のことば』も、傑作ぞろいの詩集『私』(2007年)にひっそりと収まっていた短い詩の題名。それが今、重要なアンソロジー全体を支える力を発揮している。なんというめぐり合わせ。これこそが谷川俊太郎の詩の、尽きせず循環し、再生することばの生命力にちがいない。
 この一語、この一行、この一作と会えてよかった......。そう感じる瞬間がきっと、訪れると思う。

 (おざき・まりこ 批評家/早稲田大学教授)

最新の書評

ページの先頭へ