書評・エッセイ

2021年8月号掲載

◯◯とは誰か?

千葉雅也『オーバーヒート』

佐々木敦

対象書籍名:『オーバーヒート』
対象著者:千葉雅也
対象書籍ISBN:978-4-10-352972-9

 鮮烈なデビュー作『デッドライン』に続く小説第二作目にして川端康成文学賞を受賞した短編「マジックミラー」と、第三作である渾身の表題作を収めた書物である。千葉雅也は、まだたった三作しか小説を書いていない。しかもそれらは「◯◯シリーズ」とでも呼べる連続性を有している。だが、にもかかわらず、すでにしてこの小説家は、きわめて豊饒にして複雑な作品世界を構築しつつある。それはおそらく本能的、直観的なことであり、と同時に明らかに意識的なことでもあると思えるのだ。
『デッドライン』では修士論文の執筆に呻吟する東京の大学院生だった「僕」は、「オーバーヒート」では関西の大学の教員になっている。本文に「今年は二〇一八年で、五年前、二〇一三年の春に大阪に引っ越してきた」とある。『デッドライン』は「二〇〇一年」から始まっていたので、長い時間が経過していることになる。「マジックミラー」には「東京を出てもう十年になる」という記述があるので、そのまま並べると現在を追い越してしまうが、それで何も困ることはない。そもそも小説における「時間」のありようは単純なものではない。「マジックミラー」はハッテン場で出会った男と二十年ぶりに再会する話である。『デッドライン』でも(論文の「締切」というゴールが設定されているものの)時間軸はあちこちに跳びまわっていた。だが「オーバーヒート」では――過去の出来事が何度か想起されはするが――「僕」の「二〇一八年」がじっくりと語られてゆく。つまり三つの小説は、「時間」の扱いという側面だけを取ってみても、やろうとしていることが違うのだ。
「オーバーヒート」では公私にわたる「僕」の日々の生活が描かれる。大学の中と外でのさまざまな仕事。生まれ育ったのとは別の街の風景や人々。年下の恋人「晴人」への想い。ひとつの特徴は物語の根幹を支えたり揺るがしたりするような大きな事件が起こらないということだ。それは記憶のために記録しておく記述という意味でブログ的と言ってもいいものかもしれない(「僕」のTwitterでの呟きも重要な要素となっている)。だが、だとすれば、ここには「ブログは如何にして小説になるのか」という企みが潜在していると考えるべきだろう。何であれ、その日に、その時にあったことを書き留めようとする際、そこには記述される過去と記述している現在とのタイムラグが不可避的に紛れ込まざるを得ない。つまりSNSであれブログであれ、そこには瞬発的なエモーションやその場の思いつきなどとともに、内省や反省といった回想モードが常に必ず発動している。こうして「僕」の「二〇一八年」は、出来事とその記述の二重の、いや、何重もの時間をフィードバックしながら、坦々としたまま熱を帯び、じわじわと温度を上げ、激しく煮立ってゆく。そう、オーバーヒートである。
『デッドライン』のデッドラインがそうであったように、「オーバーヒート」のオーバーヒートもまた、真に重要なのは、いつのまにかそこを超えてしまっている、ということのほうなのだ。わかりやすいドラマツルギーの代わりに、三番目の小説で、作者は身辺雑記にも近い記述が重層的に折り重ねられてフィクションへと離陸するさまを確かに掴まえてみせた。このことは、この作品が、二〇一八年九月頭の関西空港を孤立化させた台風21号の直撃――台風も「オーバーヒート」の隠喩である――で幕を閉じること、そして何より、その一年後に千葉雅也が「デッドライン」という小説を発表する/したという事実によって裏打ちされている。語られる時間も書かれた順番も逆だが、実は「オーバーヒート」は「デッドライン」の「前日譚」でもあるのだ。
 三作ともに「僕」は「◯◯」と呼ばれている。「マジックミラー」には、そこには「僕のファーストネーム」が入るという記述もある。では、この「◯◯」は「雅也」なのか。それはそうだろう、とあっさり言ってしまいたくなる。とともに、そんなわけがない、とも言わねばならない。「◯◯」とは、この両極の合間に読者を宙吊りにする、シンプルでありながらおそるべき装置なのだ。「◯◯シリーズ」は今後も書かれるだろうが、「僕=◯◯」が同一人物であるのかどうかさえ、わかったものではない。小説とはそういうことをするものなのだし、千葉雅也は間違いなくそのことを知悉した上で、小説を書き始めたのだ。

 (ささき・あつし 思考家/作家)

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