書評
2021年8月号掲載
二つの志向、その断裂
ペーター・テリン『身内のよんどころない事情により』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『身内のよんどころない事情により』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ペーター・テリン 長山さき 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590172-1
日本では40歳(しじゅう)を「不惑」と呼ぶことがある。「不惑」、その言葉は中国は春秋戦国時代の思想家である孔子が、各年代の心得を自らの経験をもとに弟子に諭した言葉として伝えられる。15歳で学を志し、30歳で学問の基礎ができた。40歳にして心に迷いがなくなり、50歳にして自分のやるべきことを自覚、60歳にして素直になって、70歳になると自分の思うようにやっても人の道を外すことがなくなった、というのが、孔子の精神遍歴だそうだ。
本書の語り手である、エミール・ステーフマンは40歳の作家だ。本人が自らに言い聞かせるように、まだ年寄りではない、かといって若者ではない。自分に与えられたらしい、人生を渡るための武器はおおよそ出そろっていて、「経験不足」とか「もう少し準備をしたい」とか言っていられない、「迷わなくなった」というよりは、「迷ってなぞいられない」年齢層。不惑である彼らには、洋の東西を問わず、それまで獲得したものと同じ重さの責任が「ほれよ」と手渡されることになる。その道ではわりに高名な、しかし一般にはあまり知られていない作家である、不惑の作家ステーフマンは異国から来た作家の接待に駆り出され、普段はそれを断ることはない。不惑である彼は自分の役割をわきまえている。
しかし、ふっと与えられた役割の重さに堪えかねることがある。ちょっとした出来心から彼は「身内のよんどころない事情により」、と言い訳をしてエストニア人作家の歓待の責務を免れようとする。嘘から出た誠、いや、口は禍の元というべきか。ただの言い訳に過ぎなかったはずの「身内のよんどころない事情」が現実のものになる。
創作者は、自身が創作した世界の中でまるで神のように振る舞うことができる。創作に没頭している自己は作品世界の隅々まで事細かに眺めまわし、手を加え、いかようにも改変できる。しかし、創作者である自己を維持するためには、食べなければならず、眠らなければならず、排泄しなければならない。世捨て人でない限り、それらを続けるためには、他者や社会とかかわらなければならない。創作者が精神だけの存在なのであれば、その完成された作品世界の中に没入し、それが世界のすべてであると思い込むこともできるが、現実はそうではなく、その外側、つまり生活がある。
ステーフマンは後に、世界的な名声を得ることになる。それはある文学賞で他と競わせることがはばかられるほどの評価を受けたディストピアSFめいた作品『殺人者』と、それに続く自伝的小説『T』が大きな契機となった。『殺人者』は作中作としては出てこないが、詳細な説明が批評として語られる。……作品世界の中で、食肉は巨大な研究所の工場で生産されるようになる。土地が飼料栽培に占領されることがなくなり、よって建築用地が増える。二酸化炭素排出がなくなり、よって車を増やすことができる。家畜の糞尿も死体もなく、食物連鎖から病気も消え、すべての人がより安い肉を得られる。要は、テクノロジーの進歩によって地球上の容積当たりの生産性を最大限までに引き上げることができた世界で、残る問題は増え続ける人口をどう抑制するか。その対策として政府がとった「手段」は殺人が二度許されるという制度づくりだった。復讐が復讐を呼び、殺人の連鎖が起こるうち、殺人枠の均衡を理解できる高度でモラルの高い上層部だけが生き残り、五年もすれば道徳的に優越した社会に成長するだろう。……
彼の作品をそう要約し、褒めたたえる教授の声を聞きながら、ステーフマンは違和感を覚える。主人公のフェルディナントだけをただ描きたかったのだと彼は思う。とりわけ、フェルディナントと彼の娘の冒険について。しかし、小説においては主人公もまた作品の要素の一つに過ぎず、「本はいつでも作者よりも賢明である」のだ。安寧を望む生活者としての彼と、世界の創造主としての彼の断裂。創造主としての成功を望むならば、それに相応しいだけの資格が必要なのではないか? あるいは逆に、生活者としての安寧を願ったとき自分は、特別な作家である資格を失ってしまうのではないか? そんな強迫観念に駆られるのは、なにも作家だけとは限らない。なぜなら、人は誰しも否応なく自分の人生の語り手であって、やはりその主人公たる資格について思いを馳せるからだ。
特別でありたく、と同時に凡庸に安寧でありたい。誰もが内に抱える相反する二つの志向、その断裂のアウトラインを描いた本著にはリアルな人生の手触りと、読書する恍惚の秘密が潜んでいる。
(うえだ・たかひろ 作家)