書評
2021年8月号掲載
特別エッセイ
ミニシアター巡礼が私を作った
映画黄金期に育った少年は、やがて世界に冠たるミニシアター都市・東京でコロナ禍を迎える――
対象書籍名:『決定版 日本の喜劇人』
対象著者:小林信彦
対象書籍ISBN:978-4-10-331828-6
私の趣味の第一は映画だ。
戦後、中国から引き揚げてきた私の一家は、父の故郷松本の近くで、戦後は誰もがそうだった貧乏暮しとなった。当時映画は娯楽の王者。ある日父は苦労している母に「たまには映画でも見てこい」と、しかし女一人で映画館に行かせるのはためらわれ、乱暴な兄でなく、幼児の妹でもなく、小学一年の私を連れてバスに乗せた。映画は「君の名は」(監督:大庭秀雄)。私は大人が言い争いばかりしている暗い映画が嫌でたまらなかったが、その後の「帰りに何か食べてこい」を楽しみにおとなしくしていた。
子供のうちは映画は親と行くものだったが、汽車通学で松本の高校に通い始め、生れて初めて一人で映画館に入った。それは黒澤明の特集上映で「生きる」「七人の侍」「野良犬」「酔いどれ天使」。
もの心つき始めた十六歳、最初の映画体験にこれほどのベストがあるだろうか。何週間もこの映画が頭から消えなかった。今でも消えていない。
以来「赤い河」(H・ホークス)、「わらの男」(P・ジェルミ)、「十戒」(C・B・デミル)、「ベン・ハー」(W・ワイラー)、「ウエスト・サイド物語」(R・ワイズ)、「太陽がいっぱい」(R・クレマン)、「地下室のメロディ」(H・ヴェルヌイユ)、「用心棒」「天国と地獄」(ともに黒澤明)、「座頭市物語」(三隅研次)などなどに胸をときめかせてゆく。
私の高校は映画に力を入れ、時々市内の映画館を借り切りにして学年交替で鑑賞会を開き、作品はフィルムを取り寄せたのだから立派。「リラの門」(R・クレール)、「ジャイアンツ」(G・スティーブンス)、「黒いオルフェ」(M・カミュ)、「渚にて」(S・クレイマー)、「さすらい」(M・アントニオーニ)など作品選択も目が高かったと言えようか。
1964年、大学入学で上京してからは乏しい金を映画につぎこみ、二番館、三番館に通う。
下宿した下北沢には三館あって、例えば「グリーン座」の「座頭市地獄旅」(三隅研次)、「100発100中」(福田純)、「馬鹿と鋏」(谷口千吉)の三本立て。これらは後年見直したがいずれも秀作。通学乗換駅新宿の地下の小劇場「シネマ新宿」の「いぬ」(J・P・メルヴィル)、「コンクリートジャングル」(J・ロージー)、「殺人者たち」(D・シーゲル)も名三本立てで、メルヴィルは最も好きな監督になる。名画座の代名詞だった「新宿日活名画座」は〈秋の欧州名画週間〉など二本立て二日替わりの特集を組み、その新聞切り抜き上映表はいつも定期券入れに入っていた。
まだ火災に遭う前の「東京国立近代美術館附属フィルム・ライブラリー助成協議会」の京橋講堂の上映にも通い始め、「夏の夜は三たび微笑む」「顔(仮面/ペルソナ)」「悪魔の眼」とI・ベルイマンに惹かれてゆく。今や伝説化した池袋「文芸坐」の鈴木清順監督五本立て土曜オールナイト全四週にも通い、白々と明けた朝の山手線で眠い目をこすりながら下宿に帰った。体力はあった。その20本で清順は最大のひいき監督となる。
あわせて映画研究雑誌を読むようになった。60年代は映画雑誌が最も活発で、双璧は「映画芸術」と「映画評論」だ。
「映画芸術」は映画評論家ではない一般文人にどしどし原稿を依頼。花田清輝、開高健、椎名麟三、遠藤周作、澁澤龍彦、関根弘、安岡章太郎、森茉莉、大岡信、小島信夫、野坂昭如、鶴見俊輔、栗田勇、丸谷才一、倉橋由美子、佐多稲子、藤原審爾、金子光晴、長谷川四郎、檀一雄、瀬戸内晴美、笹沢左保、白石かずこ、種村季弘、寺山修司、長部日出雄、飯島耕一、針生一郎などなど、文学者がこれほど映画について書いた時期はなかった。
編集長・小川徹が三島由紀夫に阿佐ヶ谷の名画座で「総長賭博」(山下耕作)を見させて書かせた論は〈場末のどことなく厠臭のする絶好の環境で〉と始まり〈あたかもギリシャ悲劇を思わせる完璧な構成〉とこの傑作を見事に論じ、後に主演・鶴田浩二との対談にもなった。三島は「切腹」(小林正樹)を題材に「残酷美について」として〈われわれの古典文学では、紅葉や櫻は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亙ってつづけて来たので……〉と書く。後年これを実践したわけか。
一つの映画がかくも多様に論じられることを知り、映画を見てその批評を読むのは、ものの見方を学ぶ日々の勉強になってゆく。当時は大学の映画研究会が盛んで「映画芸術」毎年2月号恒例の「年間ベスト10・ワースト10」には各大学映研の選も掲載され、映研部長による高邁な論が載る。田舎から上京したばかりの私は、学生はアートシアター系の芸術作や社会派を選ぶと思いきや、一般には娯楽映画の扱いである日活活劇などを真正面から推挙するのに驚き、学生人気ナンバーワンだった「狼の王子」(舛田利雄)は確かに傑作だった。その頃の学生は文学よりも映画派で「え、あれ見てないの?」とバカにされるのを恐れた。
「映画評論」は56年に佐藤忠男が編集に加わると「長い評論」を提唱する一方、日本ヌーヴェルバーグを支持して、台頭する若い映画人に誌面を開放してゆく。
それまでの映画批評は大新聞の映画記者、例えば朝日新聞の津村秀夫などが、文学への劣等感いっぱいに文芸映画や社会良識派をもちあげる印象批評だけで非常にレベルが低く、業を煮やした市川崑が「キネマ旬報」で対談した朝日新聞・井沢淳は、話にならないほど居丈高逃げ腰で、『シネアスト市川崑』(キネマ旬報社)の再録はその意味で貴重だ。佐藤は津村や井沢を「あの二人は威張っているだけで、謙虚ってことを知りませんでしたよ」と切り捨てる(2009年、高崎俊夫のインタビュー「『映画評論』、われらの時代に」より)。
1961年、佐藤が、当時「ヒッチコックマガジン」編集長の中原弓彦(小林信彦)に枚数無制限で依頼した「喜劇映画の衰退」300枚を掲載。その後も中原は積極的に同誌へ執筆を重ね、63年9月号「日活活劇の盛衰」は画期的な長編だった。文芸映画や社会派とは全く異なる見方で映画の持つ力を系統的に論じ、お手軽と称されたジャンルものやシリーズものが映画をいかに深めて行ったかの中原の論は、私に大きな影響を与えた。
大学を卒業して銀座の会社に勤め始めても映画を見ることは続く。
そのころ信頼を寄せた御三家は、和田誠、渡辺武信、山田宏一の三氏。千駄ケ谷に下宿していた私は、開店したばかりのモダンな内装で各界気鋭人のたまり場となっていたバー「ラジオ」によく通い、ある夜一人で飲んでいると、和田誠氏と渡辺武信氏が一緒に現れて近くに座った。大ファンだった私は下宿に走って帰り、渡辺著『ヒーローの夢と死』を持参、〈太田和彦様 一九七五・五・二 渡辺武信〉とサインをいただくと、ほろ酔いでにこにこ見ていた和田氏が「ボクはいいの?」と冗談を言ってくれた。
名画座に通い、評論雑誌で学んだのは、主題解析だけではなく、作品を良くしている映画的要因を具体的に見抜く力だ。「面白かった」ではなく「どうして面白かったか」。山田宏一の文を読んでその作品を見に行き、帰ってからもう一度読むとそれがよくわかる。後年私は居酒屋の文を書くようになりその方法を真似た(すみません)。私の本で知った居酒屋に入り、帰ってからまた読むと納得する、という声はうれしかった。
*
そうして私は「名作は自分で発見する」個人シネマテークを作ってゆく。
熱心に通うようになったのは八〇年代以降で、まず通いつめたのは封切り以来どこでも上映されていないであろう日本映画旧作ばかりをかける大井町の名画座「大井武蔵野館」だ。
支配人・小野善太郎さんは“日本映画の墓掘人”を自称、映画評論家や大新聞映画記者からは無視されていた新東宝作品や珍品面白映画、怪談映画などのマイナー作、カルト作品をどんどん特集し、従来の日本映画史が、いかに少ない作品しか取り上げていなかったかを上映をもって証明した。例えば「鴛鴦(おしどり)歌合戦」(マキノ正博)、「春秋一刀流」「天狗飛脚」(ともに丸根賛太郎)の発掘。特集「第一回・全日本とんでもない映画祭」「愛と哀しみの変身人間」などは忘れ難く、私は勝手に「OMF会報」(OMF=大井武蔵野館ファンクラブ)なる新聞を発行して小野さんの目を白黒させたが、そのうち館内に貼り出し、配ってくれるようになった。
あわせて通ったのが三軒茶屋にあった「スタジオams」だ。支配人の吉濱葉子さんは、古い日本映画の代表作よりも、監督や俳優のデビューの頃や一般にはなじみの薄い作品ばかりを年間100本上映。長期シリーズ「検証・日本の映画監督たち」や女優特集は精緻をきわめ、岡田茉莉子は期間中毎日、高峰三枝子は亡くなるふた月前に来館。香川京子は全32本上映に何度も来られ、サインをいただいたこともある。私は大女優が自らの若き日の姿をそっと見に来ていることに胸を熱くした。川本三郎氏は当時「古い日本映画を見ることを全てのスケジュールに優先させる」と通い、その後数々の名著を書き下ろしてゆく。閉館が決まって、渋谷の居酒屋二階で「吉濱さんに感謝する会」を開き、小野善太郎、田中眞澄、武藤康史らが集まり、川本氏は都合がつかないのを残念がった。
二館ともベストテン的映画史からは顧みられない作品の上映に絶大な意義があり、研究者に機会を与え、価値なしと思われていたものが優れた作品であると「発見」させた。しかし名画座はバブル景気に見放された場末感ゆえに閉館が続いてゆく。
しかし2000年代に入り、新しくきれいな劇場の最良の上映で鑑賞できるミニシアターとして復活する。「シネマヴェーラ渋谷」「神保町シアター」「ラピュタ阿佐ヶ谷」「新文芸坐」「フィルムセンター」がそれだ。
特徴は各館の工夫を凝らした特集にある。例えばシネマヴェーラ渋谷〈フィルム・ノワールの世界〉〈ジョージ・キューカーとハリウッド女性映画の時代〉〈蘇る映画魂/The Legend of石井輝男〉。神保町シアター〈恋する女優・芦川いづみ〉〈生誕百三十五年谷崎潤一郎/谷崎・三島・荷風―耽美と背徳の文芸映画〉〈生誕110年/森雅之―孤高のダンディズム〉。ラピュタ阿佐ヶ谷〈現代文学栄華館〉〈添えもの映画百花繚乱〉〈お姐ちゃんタイフーン〉。新文芸坐は洋邦とりまぜた圧倒的な本数で〈市川崑 初期ライト・コメディの誘惑〉や〈喜劇のデパート森繁久彌〉など。フィルムセンターが意義を強化して再々スタートした「国立映画アーカイブ」の三船敏郎や山口淑子の回顧は珍しい作品が頻出した。「古い映画を、ある観点でまとめて見る」という私の夢は完全に実現、通いきれない嬉しい悲鳴となる。
映画好きの夢は一本撮ることではない。自分で選んだ作品を特集上映することだ。不肖私も神保町シアターで機会をいただき〈昭和の原風景〉を4週間28本、〈映画と酒場と男と女〉を3週間21本上映していただいた。苦心はそのラインナップだが、間近にどこかで上映された作品ははずし、滅多にかからない隠れたる傑作を軸にしながらも客の呼べる有名作も必要。「これが興行の難しさですな」と嬉しげに悩んでみせる。
さらに力が入ったのはちらしの、1本60字程度の内容紹介文。さらに始まれば「入ってる?」と客入りの心配。調子にのって舞台挨拶までした。今や人気作となった「東京おにぎり娘」(田中重雄)はこの時の上映がきっかけと自負してます。
新名画座ミニシアターは、古いポスターや宣伝プレスを探し出して展示し、幕間にはその作品の主題歌や当時の歌をかけ、俳優や製作者のトークショーも欠かさず、ちらしは資料価値があり、さらに自らニュープリントもするという、もはや研究機関。世界にこれだけ映画愛にあふれた名画座が多い都市はないだろう。客は購入チケットの順番を守って入場し、終わると出て次の回を待つ。同じ日に二本、三本と見るのは普通だ。
そこにはしっかり名画座族が生れた。就中(なかんずく)、最も多く見ていると畏怖されるのは、噺家・快楽亭ブラック師匠と、音楽家・小西康陽の二氏だ。これも昔、当時宝島社にいた町山智浩さんに映画雑誌を発行しようと持ちかけられ、望むところと張りきり様々な記事を作った中で、ブラック氏に「この一年に見た作品一覧」をお願いしたところ、所定見開きに最小の活字でもおさまらず、編集後記まではみ出てようやくおさめた。この「映画宝島」は創刊準備号で終わってしまったのが残念だ。渡米した町山氏のその後の活躍はめざましい。
ひまな中年オヤジ専用と見られていた名画座に、見違えるような若い女性が通い始めているのも新傾向だ。
その一人、のむみち氏は手書きの名画座スケジュール表「名画座かんぺ」を毎月発行、巻末の資料がすばらしい「名画座手帳」を毎年発行、名著『銀幕に愛をこめて』(宝田明/構成のむみち)も作った、今やだれもが知る「名画座の女神(ミューズ)」。
若手女性作家・山内マリコ氏が〈名画座通いに明け暮れる、永遠の29歳マリコフの世界展〉としてネット連載する「ザ・ワールド・オブ・マリコフ」は、例えば私はたいした作品ではないと思った「居酒屋兆治」(降旗康男)を〈つまりこの映画の世界では、女として生きることが許されるのは、「男の領域を邪魔してこない、非女性的で無害な妻」か、「男の欲望の捌け口を担っている、女性性を保った女(水商売限定)」の二種しかないことになるのです。そのどれでもない女は、死をもって成敗されるのです。うおぉおぉぉぉぉ!!!と鮮やかに指摘。ちなみにその三人は加藤登紀子、ちあきなおみ、大原麗子。
古い日本映画の再上映は、新たな人気俳優を生んでゆく。双璧は市川雷蔵と若尾文子。角川シネマ有楽町などの特集上映は毎年恒例となり、観客は両人の幅広い役柄とスター性、一貫した作品の水準の高さを見抜いたのだ。
古い作品を見続けるうち、いつしか「日本映画特有の表現とは何か」を考えるようになった。きっかけは1974年のフィルムセンターの特集「監督研究:清水宏と石田民三」だ。以降両監督の上映は欠かさず追いかける。文芸の研究に全作読破は必須だが、映画は上映が他力本願ゆえ、なかなか全作までは辿り着けず、貴重な機会を出張などで逃すとまた20年後になるのは普通だ。苦節ン十年、両監督の現存作ほぼ9割は消化した。全作すばらしいが代表作を挙げておくと、清水「按摩と女」「小原庄助さん」「蜂の巣の子供たち」、石田「むかしの歌」「花つみ日記」「化粧雪」あたり。共通するのは、劇性よりも情感を重んじ、人物を風景に溶け込ませ、日本画における余白の如き部分を大切にする、だろうか。
*
昨年4月、名画座ミニシアターに危機が訪れた。
コロナ禍での緊急事態宣言による営業縮小要請で都内のミニシアターは、席を一つおきにテープで座れなくした無残な眺めとなり、休業館も出て継続が危うくなった。憂慮した映画監督、深田晃司・濱口竜介が発起人となり、4月13日にクラウドファンディング「ミニシアターエイド」による基金募集を始めると反響は大きく、1ヶ月後には3万人近い賛同者を得て、目標額を大幅に超えた3億3千万円余となり、全国118の劇場、102の団体に平均300万円を寄付することができた。ミニシアターがなくなっては困るファンはかくもいたのだ。
その間も客は劇場に通い続けた。待機するロビーはみな無言ゆえにそれでも見るという意志を感じる。私は2019年に124本を見て、20年は104本に減ったが、1本への愛が深まったかのように手帳に記す評価は甘くなり、五つ星が続いた。
今年4月、三度めの緊急事態宣言となり、閉鎖を余儀なくされた館も出てきた。このままでは豊かな名画座文化、映画文化が消えかねない。
渦中の5月22日、シネマヴェーラ渋谷で「小林信彦プレゼンツ/これがニッポンの喜劇人だ!」2週間の特集が始まった。中原弓彦名義『日本の喜劇人』が初版以来49年めに『決定版 日本の喜劇人』として刊行された記念で、榎本健一、花菱アチャコ、森繁久彌、フランキー堺、渥美清、植木等、藤山寛美、伴淳三郎、由利徹、宍戸錠、小林旭らの「隠れたる作品」が選ばれたようだ。
ロビーの検温、消毒の厳戒態勢下、全員がマスクで顔を隠す集団はギャングかゾンビのように異様で、ふとトリュフォー「華氏451」で焚書令に抗してすべての書を記憶せんと輪になって本を読むシーンを思い出す。初回午前11時の上映開始前、やや暗くしたスクリーンに「ミニシアターエイド基金コレクターの皆様への感謝」とタイトルされて、賛同者名と全国のミニシアターの写真が流れる。
……河瀬直美、行定勲、のん、うっしー、原田美枝子、ヨウスケ、月永理絵、渡辺武信、狸丸、塚本晋也、かおりん、まことくん、鞍馬天狗、太田蜀山人、みしえる、アナコンダ、ナマケモノ、役所広司、こぶへい、おでん組、ゴジラ先輩、佐藤浩市、川上冷奴、かばどん、おやじ、電池停止、横浜のたぬき、矢部太郎、弥太っぺ、柄本佑、ごはんですよ、新文芸坐、早稲田松竹、株式会社アミューズ、ちば映画祭……。続く注意事項アナウンスは、マスク厳守、会話飲食禁止などを列挙し〈ミニシアターの映写持続のため皆様の一層のご理解とご協力をお願い申し上げます〉と結ばれる。
ようやく本編が始まった。銀輪が七色にキラキラ光りまわる日活タイトルに続いてスクリーンいっぱいにおなじみ太字殴り書きで「ろくでなし稼業」がバーンと立ち上がって登場。
――これだ、これだよ、上映自粛などくそくらえ、名画座魂バクハツだぁ!
伊豆あたりの港に現れたふてぶてしい“エースのジョー”と、一見余裕のろくでなし二谷英明はなんとなく気が合って、セコイ詐欺でひと儲けたくらむ。悪役はもちろん金子信雄。そのねちっこい横恋慕相手がセクシーな南田洋子(ダーイ好き♡)。だまされた父を信じる清純娘吉永小百合にほだされた二人は……。マンネリな話を生き生きと演じる役者陣、演出テンポの良さ。
「東京の暴れん坊」(斎藤武市)は、パリの裏町を思わせるセットにかわるがわる出てくるミュージカル調のタイトルバックが楽しい。お話は銀座「キッチンジロウ」の息子でパリ帰りの小林旭と、銭湯の娘・浅丘ルリ子の突っ張り合い恋物語。銀座八丁目に今もある銭湯「金春湯」はサラリーマン時代よく通ったのでなまじ嘘ではない。女湯脱衣場の恋のさやあて半裸取っ組み合いに、番台のルリ子(いいなあ)は男湯のアキラを呼びにゆくがその裸にびっくり赤面、小さなタオルを腰に巻かせて連れ出し仲裁にもみあうという、筋に必要ないきわどい場面が最高だ(こういうところを最高と言いますか)。小林旭の全く照れもけれん味もない(信彦氏いわく「無意識過剰」)スターっぷりがいい。
「ニッポン無責任時代」(古沢憲吾)の植木等は、歌って踊ってガハハと笑うリズム感ある図々しさが旧来の喜劇人を超えているのがよくわかる。
渥美清の「続 拝啓天皇陛下様」(野村芳太郎/脚本:山田洋次ほか)は、戦中~戦後の底辺を生きた庶民史として出色の力作で小沢昭一がすばらしい。テレビドラマ「田舎刑事 時間よ、とまれ」「田舎刑事 まぼろしの特攻隊」は、早坂暁の練りあげた脚本、橋本信也、森崎東の緊迫した演出で、あのご面相ゆえ喜劇味がただよってしまう渥美が、真っ直ぐに容疑者を見る目の力にうなった傑作だった。
上映が始まれば現世を忘れられるのが映画の良さ。席を埋める客は笑い転げ、また水を打ったようにシンと集中する。マスクのゾンビは人間に戻ったのだ。
特集全15本完全制覇は久しぶりに名画座通いの醍醐味だった。名画座ミニシアターは新しい文化、娯楽を生み、私の人生を豊かにし続けている。その灯を消してはならない。
7月初旬、ラピュタ阿佐ヶ谷「蔵出し! 松竹レアもの祭」の一本「踊りたい夜」(井上梅次)は、かつて大井武蔵野館で見た傑作に、主演・鰐淵晴子様のトークがセット。用心して一時間前に行ったが満席完売。泣く泣く帰ったけれど、憧れの美女が若き日のこの作を大切に思っている様子がうれしかった。
(おおた・かずひこ 居酒屋研究家)
戦後、中国から引き揚げてきた私の一家は、父の故郷松本の近くで、戦後は誰もがそうだった貧乏暮しとなった。当時映画は娯楽の王者。ある日父は苦労している母に「たまには映画でも見てこい」と、しかし女一人で映画館に行かせるのはためらわれ、乱暴な兄でなく、幼児の妹でもなく、小学一年の私を連れてバスに乗せた。映画は「君の名は」(監督:大庭秀雄)。私は大人が言い争いばかりしている暗い映画が嫌でたまらなかったが、その後の「帰りに何か食べてこい」を楽しみにおとなしくしていた。
子供のうちは映画は親と行くものだったが、汽車通学で松本の高校に通い始め、生れて初めて一人で映画館に入った。それは黒澤明の特集上映で「生きる」「七人の侍」「野良犬」「酔いどれ天使」。
もの心つき始めた十六歳、最初の映画体験にこれほどのベストがあるだろうか。何週間もこの映画が頭から消えなかった。今でも消えていない。
以来「赤い河」(H・ホークス)、「わらの男」(P・ジェルミ)、「十戒」(C・B・デミル)、「ベン・ハー」(W・ワイラー)、「ウエスト・サイド物語」(R・ワイズ)、「太陽がいっぱい」(R・クレマン)、「地下室のメロディ」(H・ヴェルヌイユ)、「用心棒」「天国と地獄」(ともに黒澤明)、「座頭市物語」(三隅研次)などなどに胸をときめかせてゆく。
私の高校は映画に力を入れ、時々市内の映画館を借り切りにして学年交替で鑑賞会を開き、作品はフィルムを取り寄せたのだから立派。「リラの門」(R・クレール)、「ジャイアンツ」(G・スティーブンス)、「黒いオルフェ」(M・カミュ)、「渚にて」(S・クレイマー)、「さすらい」(M・アントニオーニ)など作品選択も目が高かったと言えようか。
1964年、大学入学で上京してからは乏しい金を映画につぎこみ、二番館、三番館に通う。
下宿した下北沢には三館あって、例えば「グリーン座」の「座頭市地獄旅」(三隅研次)、「100発100中」(福田純)、「馬鹿と鋏」(谷口千吉)の三本立て。これらは後年見直したがいずれも秀作。通学乗換駅新宿の地下の小劇場「シネマ新宿」の「いぬ」(J・P・メルヴィル)、「コンクリートジャングル」(J・ロージー)、「殺人者たち」(D・シーゲル)も名三本立てで、メルヴィルは最も好きな監督になる。名画座の代名詞だった「新宿日活名画座」は〈秋の欧州名画週間〉など二本立て二日替わりの特集を組み、その新聞切り抜き上映表はいつも定期券入れに入っていた。
まだ火災に遭う前の「東京国立近代美術館附属フィルム・ライブラリー助成協議会」の京橋講堂の上映にも通い始め、「夏の夜は三たび微笑む」「顔(仮面/ペルソナ)」「悪魔の眼」とI・ベルイマンに惹かれてゆく。今や伝説化した池袋「文芸坐」の鈴木清順監督五本立て土曜オールナイト全四週にも通い、白々と明けた朝の山手線で眠い目をこすりながら下宿に帰った。体力はあった。その20本で清順は最大のひいき監督となる。
あわせて映画研究雑誌を読むようになった。60年代は映画雑誌が最も活発で、双璧は「映画芸術」と「映画評論」だ。
「映画芸術」は映画評論家ではない一般文人にどしどし原稿を依頼。花田清輝、開高健、椎名麟三、遠藤周作、澁澤龍彦、関根弘、安岡章太郎、森茉莉、大岡信、小島信夫、野坂昭如、鶴見俊輔、栗田勇、丸谷才一、倉橋由美子、佐多稲子、藤原審爾、金子光晴、長谷川四郎、檀一雄、瀬戸内晴美、笹沢左保、白石かずこ、種村季弘、寺山修司、長部日出雄、飯島耕一、針生一郎などなど、文学者がこれほど映画について書いた時期はなかった。
編集長・小川徹が三島由紀夫に阿佐ヶ谷の名画座で「総長賭博」(山下耕作)を見させて書かせた論は〈場末のどことなく厠臭のする絶好の環境で〉と始まり〈あたかもギリシャ悲劇を思わせる完璧な構成〉とこの傑作を見事に論じ、後に主演・鶴田浩二との対談にもなった。三島は「切腹」(小林正樹)を題材に「残酷美について」として〈われわれの古典文学では、紅葉や櫻は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亙ってつづけて来たので……〉と書く。後年これを実践したわけか。
一つの映画がかくも多様に論じられることを知り、映画を見てその批評を読むのは、ものの見方を学ぶ日々の勉強になってゆく。当時は大学の映画研究会が盛んで「映画芸術」毎年2月号恒例の「年間ベスト10・ワースト10」には各大学映研の選も掲載され、映研部長による高邁な論が載る。田舎から上京したばかりの私は、学生はアートシアター系の芸術作や社会派を選ぶと思いきや、一般には娯楽映画の扱いである日活活劇などを真正面から推挙するのに驚き、学生人気ナンバーワンだった「狼の王子」(舛田利雄)は確かに傑作だった。その頃の学生は文学よりも映画派で「え、あれ見てないの?」とバカにされるのを恐れた。
「映画評論」は56年に佐藤忠男が編集に加わると「長い評論」を提唱する一方、日本ヌーヴェルバーグを支持して、台頭する若い映画人に誌面を開放してゆく。
それまでの映画批評は大新聞の映画記者、例えば朝日新聞の津村秀夫などが、文学への劣等感いっぱいに文芸映画や社会良識派をもちあげる印象批評だけで非常にレベルが低く、業を煮やした市川崑が「キネマ旬報」で対談した朝日新聞・井沢淳は、話にならないほど居丈高逃げ腰で、『シネアスト市川崑』(キネマ旬報社)の再録はその意味で貴重だ。佐藤は津村や井沢を「あの二人は威張っているだけで、謙虚ってことを知りませんでしたよ」と切り捨てる(2009年、高崎俊夫のインタビュー「『映画評論』、われらの時代に」より)。
1961年、佐藤が、当時「ヒッチコックマガジン」編集長の中原弓彦(小林信彦)に枚数無制限で依頼した「喜劇映画の衰退」300枚を掲載。その後も中原は積極的に同誌へ執筆を重ね、63年9月号「日活活劇の盛衰」は画期的な長編だった。文芸映画や社会派とは全く異なる見方で映画の持つ力を系統的に論じ、お手軽と称されたジャンルものやシリーズものが映画をいかに深めて行ったかの中原の論は、私に大きな影響を与えた。
大学を卒業して銀座の会社に勤め始めても映画を見ることは続く。
そのころ信頼を寄せた御三家は、和田誠、渡辺武信、山田宏一の三氏。千駄ケ谷に下宿していた私は、開店したばかりのモダンな内装で各界気鋭人のたまり場となっていたバー「ラジオ」によく通い、ある夜一人で飲んでいると、和田誠氏と渡辺武信氏が一緒に現れて近くに座った。大ファンだった私は下宿に走って帰り、渡辺著『ヒーローの夢と死』を持参、〈太田和彦様 一九七五・五・二 渡辺武信〉とサインをいただくと、ほろ酔いでにこにこ見ていた和田氏が「ボクはいいの?」と冗談を言ってくれた。
名画座に通い、評論雑誌で学んだのは、主題解析だけではなく、作品を良くしている映画的要因を具体的に見抜く力だ。「面白かった」ではなく「どうして面白かったか」。山田宏一の文を読んでその作品を見に行き、帰ってからもう一度読むとそれがよくわかる。後年私は居酒屋の文を書くようになりその方法を真似た(すみません)。私の本で知った居酒屋に入り、帰ってからまた読むと納得する、という声はうれしかった。
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そうして私は「名作は自分で発見する」個人シネマテークを作ってゆく。
熱心に通うようになったのは八〇年代以降で、まず通いつめたのは封切り以来どこでも上映されていないであろう日本映画旧作ばかりをかける大井町の名画座「大井武蔵野館」だ。
支配人・小野善太郎さんは“日本映画の墓掘人”を自称、映画評論家や大新聞映画記者からは無視されていた新東宝作品や珍品面白映画、怪談映画などのマイナー作、カルト作品をどんどん特集し、従来の日本映画史が、いかに少ない作品しか取り上げていなかったかを上映をもって証明した。例えば「鴛鴦(おしどり)歌合戦」(マキノ正博)、「春秋一刀流」「天狗飛脚」(ともに丸根賛太郎)の発掘。特集「第一回・全日本とんでもない映画祭」「愛と哀しみの変身人間」などは忘れ難く、私は勝手に「OMF会報」(OMF=大井武蔵野館ファンクラブ)なる新聞を発行して小野さんの目を白黒させたが、そのうち館内に貼り出し、配ってくれるようになった。
あわせて通ったのが三軒茶屋にあった「スタジオams」だ。支配人の吉濱葉子さんは、古い日本映画の代表作よりも、監督や俳優のデビューの頃や一般にはなじみの薄い作品ばかりを年間100本上映。長期シリーズ「検証・日本の映画監督たち」や女優特集は精緻をきわめ、岡田茉莉子は期間中毎日、高峰三枝子は亡くなるふた月前に来館。香川京子は全32本上映に何度も来られ、サインをいただいたこともある。私は大女優が自らの若き日の姿をそっと見に来ていることに胸を熱くした。川本三郎氏は当時「古い日本映画を見ることを全てのスケジュールに優先させる」と通い、その後数々の名著を書き下ろしてゆく。閉館が決まって、渋谷の居酒屋二階で「吉濱さんに感謝する会」を開き、小野善太郎、田中眞澄、武藤康史らが集まり、川本氏は都合がつかないのを残念がった。
二館ともベストテン的映画史からは顧みられない作品の上映に絶大な意義があり、研究者に機会を与え、価値なしと思われていたものが優れた作品であると「発見」させた。しかし名画座はバブル景気に見放された場末感ゆえに閉館が続いてゆく。
しかし2000年代に入り、新しくきれいな劇場の最良の上映で鑑賞できるミニシアターとして復活する。「シネマヴェーラ渋谷」「神保町シアター」「ラピュタ阿佐ヶ谷」「新文芸坐」「フィルムセンター」がそれだ。
特徴は各館の工夫を凝らした特集にある。例えばシネマヴェーラ渋谷〈フィルム・ノワールの世界〉〈ジョージ・キューカーとハリウッド女性映画の時代〉〈蘇る映画魂/The Legend of石井輝男〉。神保町シアター〈恋する女優・芦川いづみ〉〈生誕百三十五年谷崎潤一郎/谷崎・三島・荷風―耽美と背徳の文芸映画〉〈生誕110年/森雅之―孤高のダンディズム〉。ラピュタ阿佐ヶ谷〈現代文学栄華館〉〈添えもの映画百花繚乱〉〈お姐ちゃんタイフーン〉。新文芸坐は洋邦とりまぜた圧倒的な本数で〈市川崑 初期ライト・コメディの誘惑〉や〈喜劇のデパート森繁久彌〉など。フィルムセンターが意義を強化して再々スタートした「国立映画アーカイブ」の三船敏郎や山口淑子の回顧は珍しい作品が頻出した。「古い映画を、ある観点でまとめて見る」という私の夢は完全に実現、通いきれない嬉しい悲鳴となる。
映画好きの夢は一本撮ることではない。自分で選んだ作品を特集上映することだ。不肖私も神保町シアターで機会をいただき〈昭和の原風景〉を4週間28本、〈映画と酒場と男と女〉を3週間21本上映していただいた。苦心はそのラインナップだが、間近にどこかで上映された作品ははずし、滅多にかからない隠れたる傑作を軸にしながらも客の呼べる有名作も必要。「これが興行の難しさですな」と嬉しげに悩んでみせる。
さらに力が入ったのはちらしの、1本60字程度の内容紹介文。さらに始まれば「入ってる?」と客入りの心配。調子にのって舞台挨拶までした。今や人気作となった「東京おにぎり娘」(田中重雄)はこの時の上映がきっかけと自負してます。
新名画座ミニシアターは、古いポスターや宣伝プレスを探し出して展示し、幕間にはその作品の主題歌や当時の歌をかけ、俳優や製作者のトークショーも欠かさず、ちらしは資料価値があり、さらに自らニュープリントもするという、もはや研究機関。世界にこれだけ映画愛にあふれた名画座が多い都市はないだろう。客は購入チケットの順番を守って入場し、終わると出て次の回を待つ。同じ日に二本、三本と見るのは普通だ。
そこにはしっかり名画座族が生れた。就中(なかんずく)、最も多く見ていると畏怖されるのは、噺家・快楽亭ブラック師匠と、音楽家・小西康陽の二氏だ。これも昔、当時宝島社にいた町山智浩さんに映画雑誌を発行しようと持ちかけられ、望むところと張りきり様々な記事を作った中で、ブラック氏に「この一年に見た作品一覧」をお願いしたところ、所定見開きに最小の活字でもおさまらず、編集後記まではみ出てようやくおさめた。この「映画宝島」は創刊準備号で終わってしまったのが残念だ。渡米した町山氏のその後の活躍はめざましい。
ひまな中年オヤジ専用と見られていた名画座に、見違えるような若い女性が通い始めているのも新傾向だ。
その一人、のむみち氏は手書きの名画座スケジュール表「名画座かんぺ」を毎月発行、巻末の資料がすばらしい「名画座手帳」を毎年発行、名著『銀幕に愛をこめて』(宝田明/構成のむみち)も作った、今やだれもが知る「名画座の女神(ミューズ)」。
若手女性作家・山内マリコ氏が〈名画座通いに明け暮れる、永遠の29歳マリコフの世界展〉としてネット連載する「ザ・ワールド・オブ・マリコフ」は、例えば私はたいした作品ではないと思った「居酒屋兆治」(降旗康男)を〈つまりこの映画の世界では、女として生きることが許されるのは、「男の領域を邪魔してこない、非女性的で無害な妻」か、「男の欲望の捌け口を担っている、女性性を保った女(水商売限定)」の二種しかないことになるのです。そのどれでもない女は、死をもって成敗されるのです。うおぉおぉぉぉぉ!!!と鮮やかに指摘。ちなみにその三人は加藤登紀子、ちあきなおみ、大原麗子。
古い日本映画の再上映は、新たな人気俳優を生んでゆく。双璧は市川雷蔵と若尾文子。角川シネマ有楽町などの特集上映は毎年恒例となり、観客は両人の幅広い役柄とスター性、一貫した作品の水準の高さを見抜いたのだ。
古い作品を見続けるうち、いつしか「日本映画特有の表現とは何か」を考えるようになった。きっかけは1974年のフィルムセンターの特集「監督研究:清水宏と石田民三」だ。以降両監督の上映は欠かさず追いかける。文芸の研究に全作読破は必須だが、映画は上映が他力本願ゆえ、なかなか全作までは辿り着けず、貴重な機会を出張などで逃すとまた20年後になるのは普通だ。苦節ン十年、両監督の現存作ほぼ9割は消化した。全作すばらしいが代表作を挙げておくと、清水「按摩と女」「小原庄助さん」「蜂の巣の子供たち」、石田「むかしの歌」「花つみ日記」「化粧雪」あたり。共通するのは、劇性よりも情感を重んじ、人物を風景に溶け込ませ、日本画における余白の如き部分を大切にする、だろうか。
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昨年4月、名画座ミニシアターに危機が訪れた。
コロナ禍での緊急事態宣言による営業縮小要請で都内のミニシアターは、席を一つおきにテープで座れなくした無残な眺めとなり、休業館も出て継続が危うくなった。憂慮した映画監督、深田晃司・濱口竜介が発起人となり、4月13日にクラウドファンディング「ミニシアターエイド」による基金募集を始めると反響は大きく、1ヶ月後には3万人近い賛同者を得て、目標額を大幅に超えた3億3千万円余となり、全国118の劇場、102の団体に平均300万円を寄付することができた。ミニシアターがなくなっては困るファンはかくもいたのだ。
その間も客は劇場に通い続けた。待機するロビーはみな無言ゆえにそれでも見るという意志を感じる。私は2019年に124本を見て、20年は104本に減ったが、1本への愛が深まったかのように手帳に記す評価は甘くなり、五つ星が続いた。
今年4月、三度めの緊急事態宣言となり、閉鎖を余儀なくされた館も出てきた。このままでは豊かな名画座文化、映画文化が消えかねない。
ロビーの検温、消毒の厳戒態勢下、全員がマスクで顔を隠す集団はギャングかゾンビのように異様で、ふとトリュフォー「華氏451」で焚書令に抗してすべての書を記憶せんと輪になって本を読むシーンを思い出す。初回午前11時の上映開始前、やや暗くしたスクリーンに「ミニシアターエイド基金コレクターの皆様への感謝」とタイトルされて、賛同者名と全国のミニシアターの写真が流れる。
……河瀬直美、行定勲、のん、うっしー、原田美枝子、ヨウスケ、月永理絵、渡辺武信、狸丸、塚本晋也、かおりん、まことくん、鞍馬天狗、太田蜀山人、みしえる、アナコンダ、ナマケモノ、役所広司、こぶへい、おでん組、ゴジラ先輩、佐藤浩市、川上冷奴、かばどん、おやじ、電池停止、横浜のたぬき、矢部太郎、弥太っぺ、柄本佑、ごはんですよ、新文芸坐、早稲田松竹、株式会社アミューズ、ちば映画祭……。続く注意事項アナウンスは、マスク厳守、会話飲食禁止などを列挙し〈ミニシアターの映写持続のため皆様の一層のご理解とご協力をお願い申し上げます〉と結ばれる。
ようやく本編が始まった。銀輪が七色にキラキラ光りまわる日活タイトルに続いてスクリーンいっぱいにおなじみ太字殴り書きで「ろくでなし稼業」がバーンと立ち上がって登場。
――これだ、これだよ、上映自粛などくそくらえ、名画座魂バクハツだぁ!
伊豆あたりの港に現れたふてぶてしい“エースのジョー”と、一見余裕のろくでなし二谷英明はなんとなく気が合って、セコイ詐欺でひと儲けたくらむ。悪役はもちろん金子信雄。そのねちっこい横恋慕相手がセクシーな南田洋子(ダーイ好き♡)。だまされた父を信じる清純娘吉永小百合にほだされた二人は……。マンネリな話を生き生きと演じる役者陣、演出テンポの良さ。
「東京の暴れん坊」(斎藤武市)は、パリの裏町を思わせるセットにかわるがわる出てくるミュージカル調のタイトルバックが楽しい。お話は銀座「キッチンジロウ」の息子でパリ帰りの小林旭と、銭湯の娘・浅丘ルリ子の突っ張り合い恋物語。銀座八丁目に今もある銭湯「金春湯」はサラリーマン時代よく通ったのでなまじ嘘ではない。女湯脱衣場の恋のさやあて半裸取っ組み合いに、番台のルリ子(いいなあ)は男湯のアキラを呼びにゆくがその裸にびっくり赤面、小さなタオルを腰に巻かせて連れ出し仲裁にもみあうという、筋に必要ないきわどい場面が最高だ(こういうところを最高と言いますか)。小林旭の全く照れもけれん味もない(信彦氏いわく「無意識過剰」)スターっぷりがいい。
「ニッポン無責任時代」(古沢憲吾)の植木等は、歌って踊ってガハハと笑うリズム感ある図々しさが旧来の喜劇人を超えているのがよくわかる。
渥美清の「続 拝啓天皇陛下様」(野村芳太郎/脚本:山田洋次ほか)は、戦中~戦後の底辺を生きた庶民史として出色の力作で小沢昭一がすばらしい。テレビドラマ「田舎刑事 時間よ、とまれ」「田舎刑事 まぼろしの特攻隊」は、早坂暁の練りあげた脚本、橋本信也、森崎東の緊迫した演出で、あのご面相ゆえ喜劇味がただよってしまう渥美が、真っ直ぐに容疑者を見る目の力にうなった傑作だった。
上映が始まれば現世を忘れられるのが映画の良さ。席を埋める客は笑い転げ、また水を打ったようにシンと集中する。マスクのゾンビは人間に戻ったのだ。
特集全15本完全制覇は久しぶりに名画座通いの醍醐味だった。名画座ミニシアターは新しい文化、娯楽を生み、私の人生を豊かにし続けている。その灯を消してはならない。
7月初旬、ラピュタ阿佐ヶ谷「蔵出し! 松竹レアもの祭」の一本「踊りたい夜」(井上梅次)は、かつて大井武蔵野館で見た傑作に、主演・鰐淵晴子様のトークがセット。用心して一時間前に行ったが満席完売。泣く泣く帰ったけれど、憧れの美女が若き日のこの作を大切に思っている様子がうれしかった。
(おおた・かずひこ 居酒屋研究家)