書評
2021年8月号掲載
私の好きな新潮文庫
罪つくりな新潮文庫
対象書籍名:『初ものがたり』/『郵便配達は二度ベルを鳴らす』/『さよならバードランド』
対象著者:宮部みゆき/J・M・ケイン 田口俊樹訳/ビル・クロウ 村上春樹訳
対象書籍ISBN:978-4-10-136920-4/978-4-10-214203-5/978-4-10-218111-9
(2)郵便配達は二度ベルを鳴らす J・M・ケイン 田口俊樹訳
(3)さよならバードランド ビル・クロウ 村上春樹訳
この原稿の御依頼を頂いた時は、嬉しくもあり、有難くもあり、戸惑いもあり、とはいえ少々面倒なので、困ってしまった。そりゃそうでしょう。新潮文庫の中から好きな本を三冊だけ選ぶだなんて。
一冊なら、儘よ、これだ、で決めてしまうし、十冊となればダラダラと、いろんなジャンルからチョイスもできる。三冊とはなんとも選者泣かせだし、読者諸氏には、きっとどの本を並べたかで、こいつはどんなセンスをしているのか、お里が知れてしまう。
かくいう私も実際他の人が選んだものには、本に限らず、映画・ジャズのCD・旨いラーメンに至るまで、つい茶々を入れてしまう。ひねくれ者だ。しかし、待てよと留まったのは、今まで私は新潮文庫を通してどんな本に出会い、心揺れ、ときめき、知的快楽や感動を貰ったことか、改めて確かめたくなったからだ。そこでこうして筆をとった。
それでも多い。気が遠くなるほどのタイトルを前にして、ふと思いついたのだが、以前より仲良くして頂いている担当のT氏にチョイスしてもらい、まず二十冊に絞ってもらった。氏曰く、私の読書傾向を探っての勘を頼りの作業とのことだったが、見事に的中。あら懐かしや、そうそうコレコレ。記憶の中に埋もれてしまった名作を見事に掘り出して頂きました。少々枕が長くなりましたが、本題に入ることに致します。
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稲荷寿司屋台の親父の正体は? 梶屋の勝蔵との因縁は? 日道坊やはどうなるのか? 霊視の力は本物か?――等々のモヤモヤが山積しているのだが、それをさっぴいても、おもしろい。また登場する江戸の味覚の数々。食いしん坊にはたまらず、また香り立つ江戸言葉に舌鼓ならぬ“目鼓・耳鼓”を打ちたくなる。
宮部作品は、長編もよいが、短編における小股の切れあがった仕上がりも素晴らしく、感に堪えない。そして本編を読み終えてからのお楽しみが「新潮文庫版のためのあとがき」である。“このたび……”からはじまる、まるで口上口調の文体には、筆者ならではの気持ちとユーモアが混在しており、後味まことによし。
このようなおまけは、文庫ならではである。宮部先生におかれましては是非に続編をお願いしたい。
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先日、『日々翻訳ざんげ』という田口氏の著書を読んだばかりで、その中で巻頭の頁に本作品の歴代翻訳の違いが列記されていた。いずれも訳者の味わいが異なっている処にとても興をそそられた。
田口氏の訳でこの不朽の名作が世に出るのはまことに嬉しく、またしばらくしてから今一度楽しみたいと思わずにはいられない。もちろん訳者あとがきは必読である。
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もう三冊あげてしまった。『羊たちの沈黙』、『絶対音感』、『チャイルド44』と他にも……あー、この頁は罪つくりだ。
(はやしや・しょうぞう 落語家)