書評・エッセイ

2021年9月号掲載

地下鉄が拓いた昭和という大衆の時代

門井慶喜『地中の星』

門井慶喜

対象書籍名:『地中の星』
対象著者:門井慶喜
対象書籍ISBN:978-4-10-354221-6

地下鉄の話を書きませんか? はじまりは担当編集者のこの一言でした。『家康、江戸を建てる』で江戸の都市インフラとなった治水工事や上水路工事を描きましたが、とりわけ土木技術に詳しいわけでも、鉄道マニア顔負けの知識があるわけでもなく、果たして自分に書けるだろうか不安に思っていました。ところが渡された資料本を自宅に帰って読んでみると、これがとにかく面白い。
 東京メトロの前身、東京地下鉄道の創業者・早川徳次(のりつぐ)は、政治家を目指して早稲田で学び、東武の根津嘉一郎に見込まれて佐野鉄道や高野登山鉄道の経営再建に手腕を発揮した男です。でもまあ、そんな仕事では満足できなかったのでしょうね。欧州視察から戻るなり、東京にロンドンのような地下鉄を掘るんだと言いはじめる。ところが誰も共感してくれないわけですよ。技術者や役人は、東京は地盤が軟弱だから絶対に無理とハナから相手にしないし、庶民レベルでは、「地面の下に電車が走ったら崩れる」とか、「自分の家の下に得体の知れないものが走られちゃぁたまんねえ」と恐怖心を抱いている。だから徳次は、「とにかく起工式までが大変だった。それに比べれば土木工事の苦労など何ということはない」という言葉を残しています。地下鉄づくりの最大の障害は、地盤でも水でもなく人間だったと。これを読んだとき、土木工事を描くにとどまらず、人間が描ける。つまり「小説にできる!」と閃いたのです。
 小説の冒頭、徳次は妻を伴って銀座四丁目の交差点に立っている。視線の先には市電を乗り降りする乗客。徳次はポケットの中に入れた豆を数えて、自らの手で乗客数のデータを集めている――この実話を知ったとき、荒唐無稽な計画がゼロからイチになる瞬間だと思ったんですね。当時の路面電車は、どの電車もぎゅうぎゅう詰めの満員で、何とか対策を取らなければならないのは明白なのに、役人は動こうとしない。徳次はしびれを切らして資金調達から技術者集めまで自分で始めるわけですが、何しろ地下鉄というものの存在が想定されていないから、規制する法制度もない。地盤のデータすらないわけです。困った徳次は一計を案じて、東京市の橋梁課に行くんですね。すると、橋を造るために調査した地盤のデータがあったわけですよ。そういった幸運にも助けられ、大隈重信や渋沢栄一の助力もあって、ようやく路線の免許が下りたと思ったら、それを横目で見ていた連中がペーパーカンパニーで同様の路線免許を取得し始める。資金は尽きそうになる、追い打ちをかけるように関東大震災が起きて大混乱、よくまあ震災の2年後に着工までこぎ着けたと思いますよ。
 工事が始まってからの章では、総監督と5人の担当責任者を設定しました。土留めと杭打ち、覆工(ふっこう)、掘削、コンクリート施工、電気設備。5つの工程を読者にわかりやすく説明するために、5人の男を100%想像で描きました。何しろ誰もやったことがない工事ですから、職人同士が衝突したり、崩落事故が起きたり、さまざまな困難が降りかかります。今回の小説では、上は政治家から下は建設現場の作業員まで、あらゆる階級の人物を登場させることで、明治でも大正でもない、昭和初期という大衆時代の幕開けを描いてみたかったのです。
『家康、江戸を建てる』では、江戸というフロンティアを築いた家康の家臣たちを描きました。そしていま読売新聞で連載している『知恵出づ 江戸再建の人』では、明暦の大火からの復興を任された老中松平信綱を中心に、江戸という大都市がどのようにリニューアルされたかを描いています。まずは御三家が城外に移転して、火除け地をつくりながら、そこに住んでいた住民がまた別の街区に移住して、を繰り返す、いわば「江戸の玉突き人事異動」。最後に行き場がなくなった庶民のために用意されたフロンティアが、埋立地の深川でした。こうして時代ごとに拡張してきた江戸―東京ですが、大正の終わりごろには海も山も開発し尽して行き場がなくなってしまっていた。そこに「最後のフロンティア」として登場したのが地下空間なのです。
 現代では当たり前すぎて、不思議に思うことすらありませんが、地面の下に電車が走って、デパートに直結して雨に濡れずにあちこちで買い物ができるということは、大正末期の人々にとって想像もつかないことだったと思います。そして、地下鉄には一等車も二等車もありません。便利で平等な昭和の都市生活はいかにして始まったのか。浅草から上野まで、昭和2年の開業当初はわずか2・1キロの短い一本の線でした。これが完成するまでには、さまざまな困難がありました。やめる理由は山ほどありました。けれども早川徳次は決して最後まであきらめなかった。この一本の線が、のちの世代にいかに大きな影響を与えたかを感じながら小説を楽しんでいただければと思います。

 (かどい・よしのぶ 作家)

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