書評
2021年10月号掲載
言葉との新しい契約
谷川俊太郎『虚空へ』
対象書籍名:『虚空へ』
対象著者:谷川俊太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-401808-6
天性の詩人はいつまでも幼子のような感性を失わないと思ってきた。幼子に新しい世界が次々と空から舞い降り、地から湧き上がってくるように、詩人には言葉が空から、地から色とりどりに降りかかる。言葉によって詩人が紡ぎだす世界は生命力に満ち溢れ、それでいて現代社会の盲点を突き、隙間を広げて私たちに自由の翼を与えてくれた。しかし、言葉の無限とも言える可能性を駆使して世界を創造しているうちに、やがて詩人は言葉の虜になる。言葉なしに世界を感知できなくなり、言葉の限界を知るようになるのではないか。では、そんな詩人が老境に達した時、どんな言葉を紡ぐのか。言葉とどんな関係を結ぶのか。谷川俊太郎はそれに一つの答えを出した。言葉の数を少なくして、新たな契約を結んだのだ。
私の大好きな詩がある。1974年に出した『空に小鳥がいなくなった日』に収録されている「朝」である。
また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを
百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前な所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった
十ケ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
私は京都大学の総長になって初めての入学式に臨んだ際、この詩を朗読して学生諸君に伝えた。悠久の宇宙と、生物の世界と、そして人間の歴史が、何とも言えぬ清冽な響きによって浮かび上がり、自分という存在の中に結びつけられていく。この詩を作った頃、詩人は40歳代の初め、生命力にあふれていたと思う。これに対して、『虚空へ』に収められた詩の群れはとても静かだ。ゆっくりとした、しかも方向を定めない時間の流れを感じる。
言葉にならないそれ
それと名指せない
それ
それがある
いつでもどこにでも
なんにでも
誰にでも
癒しながら
傷つけるそれ
決して失くならないそれ
名づけてはいけない
それを
惑わしてはいけない
言葉で
(『虚空へ』より)
言葉は世界を切り取って意味を伝えるために生まれた。詩人はその言葉を集めて風景を作る。しかし、この詩集のどの詩にもはっきりした風景がない。言葉を少なくすることで意味が薄れ、風景が溶けていく。表も裏もなく、善も悪もない。名前がなくなっていく。いや、詩人はあえて名前を呼ばない。名付けてはいけないと言う。それは個というこだわりを捨てて、全体へ、無へと向かうこと。
思い出したことがある。十数年前に私はあるゴリラに会いにアフリカへ旅したことがある。タイタスという名のオスゴリラで、26年ぶりの再会だった。初めて会ったとき、タイタスは6歳、人間でいえば中学に上がったばかりの少年である。私は苔むした森の奥の小屋に住み、ほとんど人間と接触せずに、毎日のようにタイタスと会って暮らしていた。それは研究者にとって至福の時間であり、私は言葉をしゃべらないゴリラと気持ちを通じ合わせる術を学んだ。約2年間をゴリラと一緒に過ごした後、私は帰国したが、だんだん現地の政治情勢が悪化して内戦に発展し、研究者は森に入ることができなくなってしまった。20年以上たって平和が戻り、タイタスが健在だという知らせが舞い込んだ。もう彼は34歳になっていて、人間ならば老境に達している。この機会を逃すともう会えないなあと思い、何とか都合をつけて現地へ向かったのである。
森に入ってすぐにタイタスの群れを見つけた。彼はすっかり老いていたが、十数頭のゴリラの群れを率いる威厳のあるリーダーだった。現地のルールに従って私は8メートル離れてタイタスと接し、観察を許された1時間、彼の注意を引こうとしてみたが、彼は私に気づくそぶりを見せなかった。無理もない、26年もたって昔の遊び仲間が、老けた顔で突然現れたのだ。そんなに簡単に記憶が戻るはずがない。
しかし、その2日後に再び会いに行ってみると、今度は様子が違った。タイタスは私を見つけると真っ直ぐにやってきて、私の顔をまじまじと見つめたのだ。私があいさつ音を出すと彼も同じ声で答えた。彼の表情が瞬く間に少年のように変わり、彼は昔のようなしぐさであおむけに寝転んだ。そして、近くの子どもゴリラを捕まえると無邪気に笑いながら遊び始めたのだ。
あっけに取られた私は、でもこれがゴリラにとって記憶を戻すということなんだと理解した。言葉を持たないゴリラは風景を切り取ったり、意味を与えたりしない。きっと記憶は何枚もの絵になって頭の中に収められているんだろう。その一枚が取り出されると、ゴリラはその絵の中に入り込んでしまう。それはタイタスのように、過去の時代に体ごと戻るということになる。
人間でも、年老いると記憶の中の時間のつながりが薄れていく。言葉の意味があいまいになり、ゴリラのように言葉を介さずに風景だけが静止画のように出てくるようになる。タイタスは私という昔の仲間に会ったことを触媒にして昔の自分に戻った。言葉を放棄すれば、人間でも同じことが起こるのだ。
谷川俊太郎が言葉と結んだ新しい契約は、言葉の強さを和らげ、身体で感じてきた世界との関係を取りもどすことにあるのではないか。言葉によって言葉の力を変える。これは新しい言葉の実験であり、この詩人にしかできない挑戦である。ゴリラと人間の間に生きてきた私には、その偉大さがよくわかる。
(やまぎわ・じゅいち 人類学者、総合地球環境学研究所所長)
私の大好きな詩がある。1974年に出した『空に小鳥がいなくなった日』に収録されている「朝」である。
また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを
百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前な所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった
十ケ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
私は京都大学の総長になって初めての入学式に臨んだ際、この詩を朗読して学生諸君に伝えた。悠久の宇宙と、生物の世界と、そして人間の歴史が、何とも言えぬ清冽な響きによって浮かび上がり、自分という存在の中に結びつけられていく。この詩を作った頃、詩人は40歳代の初め、生命力にあふれていたと思う。これに対して、『虚空へ』に収められた詩の群れはとても静かだ。ゆっくりとした、しかも方向を定めない時間の流れを感じる。
言葉にならないそれ
それと名指せない
それ
それがある
いつでもどこにでも
なんにでも
誰にでも
癒しながら
傷つけるそれ
決して失くならないそれ
名づけてはいけない
それを
惑わしてはいけない
言葉で
(『虚空へ』より)
言葉は世界を切り取って意味を伝えるために生まれた。詩人はその言葉を集めて風景を作る。しかし、この詩集のどの詩にもはっきりした風景がない。言葉を少なくすることで意味が薄れ、風景が溶けていく。表も裏もなく、善も悪もない。名前がなくなっていく。いや、詩人はあえて名前を呼ばない。名付けてはいけないと言う。それは個というこだわりを捨てて、全体へ、無へと向かうこと。
思い出したことがある。十数年前に私はあるゴリラに会いにアフリカへ旅したことがある。タイタスという名のオスゴリラで、26年ぶりの再会だった。初めて会ったとき、タイタスは6歳、人間でいえば中学に上がったばかりの少年である。私は苔むした森の奥の小屋に住み、ほとんど人間と接触せずに、毎日のようにタイタスと会って暮らしていた。それは研究者にとって至福の時間であり、私は言葉をしゃべらないゴリラと気持ちを通じ合わせる術を学んだ。約2年間をゴリラと一緒に過ごした後、私は帰国したが、だんだん現地の政治情勢が悪化して内戦に発展し、研究者は森に入ることができなくなってしまった。20年以上たって平和が戻り、タイタスが健在だという知らせが舞い込んだ。もう彼は34歳になっていて、人間ならば老境に達している。この機会を逃すともう会えないなあと思い、何とか都合をつけて現地へ向かったのである。
森に入ってすぐにタイタスの群れを見つけた。彼はすっかり老いていたが、十数頭のゴリラの群れを率いる威厳のあるリーダーだった。現地のルールに従って私は8メートル離れてタイタスと接し、観察を許された1時間、彼の注意を引こうとしてみたが、彼は私に気づくそぶりを見せなかった。無理もない、26年もたって昔の遊び仲間が、老けた顔で突然現れたのだ。そんなに簡単に記憶が戻るはずがない。
しかし、その2日後に再び会いに行ってみると、今度は様子が違った。タイタスは私を見つけると真っ直ぐにやってきて、私の顔をまじまじと見つめたのだ。私があいさつ音を出すと彼も同じ声で答えた。彼の表情が瞬く間に少年のように変わり、彼は昔のようなしぐさであおむけに寝転んだ。そして、近くの子どもゴリラを捕まえると無邪気に笑いながら遊び始めたのだ。
あっけに取られた私は、でもこれがゴリラにとって記憶を戻すということなんだと理解した。言葉を持たないゴリラは風景を切り取ったり、意味を与えたりしない。きっと記憶は何枚もの絵になって頭の中に収められているんだろう。その一枚が取り出されると、ゴリラはその絵の中に入り込んでしまう。それはタイタスのように、過去の時代に体ごと戻るということになる。
人間でも、年老いると記憶の中の時間のつながりが薄れていく。言葉の意味があいまいになり、ゴリラのように言葉を介さずに風景だけが静止画のように出てくるようになる。タイタスは私という昔の仲間に会ったことを触媒にして昔の自分に戻った。言葉を放棄すれば、人間でも同じことが起こるのだ。
谷川俊太郎が言葉と結んだ新しい契約は、言葉の強さを和らげ、身体で感じてきた世界との関係を取りもどすことにあるのではないか。言葉によって言葉の力を変える。これは新しい言葉の実験であり、この詩人にしかできない挑戦である。ゴリラと人間の間に生きてきた私には、その偉大さがよくわかる。
(やまぎわ・じゅいち 人類学者、総合地球環境学研究所所長)