対談・鼎談
2021年10月号掲載
日本デザイン振興会 リエゾンセンター・ライブラリー主催オンライントークイベント
ひとの住処の回復論
隈研吾 × 井上岳一 × MOTOKO
対象書籍名:『日本列島回復論 この国で生き続けるために』/『ひとの住処 1964-2020』
対象著者:隈研吾/井上岳一
対象書籍ISBN:978-4-10-603847-1/ 978-4-10-610848-8
「二項対立」というフィクション
井上 今日は日本デザイン振興会さんのご提案で、私の書いた『日本列島回復論 この国で生き続けるために』(新潮選書)と隈研吾さんの『ひとの住処 1964‐2020』(新潮新書)をテーマにオンラインでブックイベントを開くことになりました。いずれも新潮社刊ということで、新潮社さんの協賛も頂いて(笑)、題して『ひとの住処の回復論』。書名を足して2で割ったようなタイトルですが、あらためてよろしくお願いいたします。
隈さんについては皆さんご存じのことと思いますが、今日は一人、ゲストをお呼びしています。写真家のMOTOKOさんです。MOTOKOさんは、広告やCDジャケット、雑誌写真のトップランナーとして活躍されてきましたが、10年ほど前からは〈ローカルフォト〉という新しい概念で、写真を通じて全国のまちを元気にしようという活動をされています。
時間も限られていますので、早速本題に入ろうと思いますが、MOTOKOさんから隈さんに是非聞いてみたいテーマがあると伺っていますが、どういったことでしょう?
MOTOKO ありがとうございます。いきなり本題で恐縮ですが、それは「二項対立」という言葉です。以前、友人の建築家から「これからの建築って、二項対立じゃないと思う」というのを聞いて、ハッとしたんです。そこで「二項対立/建築家」で検索したところ、隈さんが書かれた記事が出てきました。92、93年ころのもので、そこに「バブル崩壊の時に二項対立が揺らぎ始めた」と書いてらっしゃって、まさにそうだな、二項対立が崩壊し始めている世界をどう表現しようかと考えるようになったんです。
隈さんはどのようなことから、この二項対立という言葉を使われるようになったのでしょうか?
隈 僕自身が「二項対立」という言葉を思いついたのはまさに20世紀末、バブルの崩壊という現象に出くわした時です。ただ、これには前段があって、僕は1986年に『10宅論』という本を出しています。ちょうどニューヨークにいた頃に書いたものでね、日本の住宅を10のカテゴリーに分けてみたんです。例えば住宅展示場派とか清里ペンション派とか、コンクリート打ちっぱなしのアーキテクト派とか……。当時の日本の住宅って、個人の欲望をお金で買っているんじゃないかと。それを嗤いのめしてやろうと思ったんです。
井上 挑戦的な試みですね。
隈 でも、その時は二項対立というところまでは考えが及ばなかった。それに気付かせてくれたのは上野千鶴子さんです。『10宅論』を読んだ彼女が、国立民族学博物館の梅棹忠夫さんを中心とする「これからの家族」をテーマにしたシンポジウムに呼んでくれたんです。そこで僕が話したことを、見事に社会学的に整理してくれた。つまり、「住宅を私有する欲求は、自分をお金で買うようなことではないか」。そしてそれは「20世紀の初めに住宅ローンというものを発明したアメリカが作ったフィクション。住宅さえ所有できれば幸せが手に入るというフィクションをアメリカが世界中に行き渡らせた」と。
そこからいろんなことが腑に落ちるようになって、二項対立の考えが膨らんでいったんです。すなわち「お金を払って自分用の家を建てる人」と「超高層を建てる資本家」。最初はその二項対立で考えていたのですが、実は対立自体がフィクションじゃないか、と思うようになりました。個人住宅も超高層も、結局はどちらも個人の欲望を忠実に形にしただけだろう、と。
井上 なるほど! 私も『日本列島回復論』で、近代化以後の生産と消費の分離がコモンやコミュニティを失わせていく過程を描きました。ムラから出て都市の労働者となった人々は、同時にマーケットを作る消費者となったわけで、そうやって膨らませてきた経済が行くところまで行って弾けたのがバブルという現象でした。
隈さんは二項対立の話から応答可能な建築へと話をつなげていますが、これはどういうことでしょう? 建築家は施主との間で対話するだろうから、そもそも建築というのはインタラクティブなものではと思っていたのですが。
隈 もちろん、建築家や建設会社はクライアントと対話はします。でも、郊外に個人住宅を建てる時も、「あなたが欲しいのはこういうもんでしょ」というふうにして、結局、建築家や建設会社の欲望の世界の中に閉じ込めて、お金を払わせる構図になっている。
一方、都市の高層オフィスで働く人も、箱の中に詰め込まれ、それが効率的な労働環境だと信じ込まされて、他者とは応答のない世界に生きている。
そういう応答のない建築が都市でも郊外でも再生産されていく状況が何とかならないかなぁと思っている時に、偶然、高知に行ったら、そこには二項対立とはまったく別の、人間と人間がちゃんと対話している世界があった。それで僕は変わることができたんです。
井上 隈さんのターニングポイントとなる高知の檮原(ゆすはら)町との出会いですね。檮原で出会ったのは、建築家や住宅産業というようなシステムになる以前の世界ということでしょうか。
隈 まさに本来、人間が家を建てたりムラをつくったりする時の、建て主と大工さんが一緒にコラボしてモノが出来上がっていく世界ですよね。
井上 『ひとの住処』では「檮原で僕は救われた」とお書きになっています。「檮原の人たちは金融資本主義とは無縁に生きて生活している。彼らと寄り添い、その場所と並走することによって、建築は再び大地と繋がることができるかもしれないという希望を手に入れた」と。「変わることができた」と仰いましたが、何が変わったんですか?
隈 仲間と作っているという感じですね。やっぱり仲間なんです。プライベートを超えて、でも不特定多数でもなく、顔の見える何人かの仲間と一緒にモノを作っているという実感です。
自然体の若者たち
MOTOKO 私も小豆島や滋賀県高島市で、仲間で高め合う感じを見てきました。それはやっぱり都市にはないものだなと感じました。
井上 仲間と一緒に、対話的につくるというのは、各地で街づくりに取り組む若い世代にも共通するものですね。隈さんは最近の若い世代の動きをどうご覧になっていますか?
隈 僕はものすごく共感を覚えています。というのも、僕の上の世代の建築家は凄く偉そうで、僕はそれにずっと違和感を持っていた。そうじゃない生き方の建築家でありたいと思ってきたけれど、今の20代や30代は非常にナチュラルに、その街が素敵だから、そこにコモンをつくるみたいなことを自然体で直観的にやっています。つくりたいものをつくるし、見せたいものは、SNSで発信する。突出したデザインが求められる建築雑誌には無理に出そうとしないんです。そこが凄くいい。
一方で、僕自身は上の世代のように理屈や原則がないと不安になるところもあって、ある種、時代の変わり目にいる人間なんだと思います。中間にいる境界人だから、若い方達のやっていることを法制化したり言語化したりすることができるのではないかと思っています。
井上 隈さんにそう仰って頂けると若い世代も自信を持てると思います。
隈 小屋をちょっと手直しするような仕事って、実はすごく気持ちいいんです。街のパン屋とか小さな風呂屋とか、建築雑誌には載らないそういう仕事を僕は積極的に意義づけていきたいし、実際に本や雑誌で紹介もしてきました。
近代的都市計画を批判したジェイン・ジェイコブズは、かなり直観的な人だったけれど、自分の嫌いなものを明確にしながら、魅力ある街の原則を記述して、ある意味、都市計画を変えるきっかけをつくった人です。井上さんがやろうとしていることも、色々な町や村のこと、そこには井上さんなりの「これはいいけれど、こういうのは嫌だよな」というものをジェイコブズ流にテキストにして、バシッとぶつけるということをされている。そういう作業はやっぱり時間を超えて残ると思います。
井上 ありがとうございます。ジェイコブズは経済や資本の論理から街や暮らしの豊かさを守ろうと戦ってきた人ですよね。僕も影響を受けています。
一方で、日本では、特にバブル崩壊後、不良債権処理を目的に都市再生が叫ばれるようになり、規制緩和によって高層建築を建てやすくしました。経済を膨らますためにタワー型マンションに象徴される「タテの建築」が大量に建造された。小泉政権が牽引した政策ですが、結果、地方は疲弊し、東京の風景も大きく変わりました。
隈 タテに行ったのは、思うに、建設業と不動産業が経済のエンジンとしてあまりに存在感が大きかったからです。日本の戦後経済はアメリカ以上にこの二つの産業に依存していた。だからバブルが弾けた時は、この二つを何とか存続させるためにタテに積まなければいけなかったという構図です。
でも皮肉なことに、それが経済の足を引っ張ることになったんですね。アメリカの場合、バブル崩壊後は、ITとかアートといった、新たな産業が経済の立て直しを担っていくんだけど、日本は建設、不動産業を生き残らせるために、タテに積むことに傾注した。だから他の産業が育たなかった。日本にグーグルみたいな企業が生まれなかったのは、そこにあると思うし、それが今の日本の閉塞感の元凶になっている。
井上 まさにそうですね。
生業としての「農」
隈 『ひとの住処』にも、「武器よさらば」ならぬ「武士よさらば」と書いたのですが、僕は建設業界は武士と同じだと思っていました。戦国時代には武士は必要で、世の中を引っ張ってきたのですが、江戸時代になって平和な世になると武士はいらないですよね。でも、江戸幕府は武士階級を維持するための制度を作った。そのために「葉隠(はがくれ)」のような、フィクションをでっちあげて、武士文化の延命をはかった。
高度成長後の日本も、建設産業という武士を守るために文化も政治も奉仕した。建築家って妙に葉隠的な美学を言ってきたわけですよ。「こうじゃなきゃ建築じゃない。そもそも建築ってこういうものだろ」みたいなことを僕らは先輩達からうんと説教されて、もう葉隠と同じだと思って。それで「武士よさらば」と書いたんですね。
井上 私も『日本列島回復論』で武士について触れたのですが、武士って、兵農分離前は百姓でもあったわけです。それだと田植え、稲刈りの時期は戦をしないので、24時間365日戦ってくれる存在として専従の兵士をつくり、城下町に住まわせた。土地から切り離された武士は、生産手段を持たない消費者です。サラリーマンと同じです。サラリーマンの原型は武士です。
逆に、いまローカルで頑張っている若者たちは、すごく百姓的に生きています。建築もやっているけど、自分でカフェも運営しているとか。土地に根差した、いろんな仕事をしている。
隈 僕も、まったくそう思うんだ。兵農分離で農から切り離され、地面から完全に切り離されたことから、寂しい武士、寂しいサラリーマンが生まれてくるわけで、僕の父親なんかが、まさにその典型例だった。その寂しさを見ていたから、何とか「農」を取り戻したい。もちろん農と言っても農業に限定する意味ではなくて、自分の生業としての「農」です。
私たちの「適正規模」
井上 そういえば、隈さんはシェアハウスを自ら運営されているんですよね。
隈 そう、自分の生業の一つとしてリアルなビジネスをやってみたいなと思って。シェアハウスをやると実際に仲間ができるから、僕の「仲間志向」にもピッタシはまる。やってみたら本当に楽しかったですね。
井上 シェアハウスをなさってみての気付きは、どんなことがありますか?
隈 それは適正規模ですね。シェアハウスって、企業がやると採算がとれないらしくて、どうしてもでかいビルを作っちゃう。でも、それだとシェアハウスとは言えないし、経済的にもサステナブルでない。5~6人ぐらいでなんとか回していくのがいい。
井上 赤字にはならないんですか?
隈 小規模で回す限り大丈夫です。シェアハウスに限らず、あらゆるものについて適正規模の意識は絶対必要です。
井上 なるほど。でも、クライアントワークをやっている限り、「適正規模はこれくらい」と思いながらも、資本家の論理でもっと大きくしてくれと言われて、その矛盾に引き裂かれるということがあるのではないですか?
隈 建築家って自分の「農」、すなわち自分のビジネスがなくなると、クライアントに依存しちゃうんです。発注がなければ仕事はない。カッコいいことを言っても、結局、待っているだけになっちゃう。発注者のロジックから自由になるためには、やはり自分自身が「農」を持つという以外ないんじゃないかというのが、ここ何十年かやってきた、僕の結論ですね。
MOTOKO お伺いしていて、私がローカルを目指したきっかけを思い出しました。ファッション雑誌で安い中国製の服を撮影していたとき、モデルが着た先から捨てられてゆくのが分かるんです。おかしいな、何で捨てられるものを撮っているんだろう、何のためにこの仕事をしているのかと思って。お金を儲けることより、何か本当に困っている状況に対して役に立つことはどこにあるんだろうと思って地方に行った時に、農家さんがいて、「このお米、どうやって売ったらいいだろう」と。それで、ちょっとやってみるかというところから、今の私が始まりました。
井上 つまり写真であれ、建築であれ、クライアントワークから離れ、真正面からその地域の課題解決に向き合うことで生き残っていくということですね。
MOTOKO デザインもそうです。実際にいろんな地方で実践され、上手くいっている方々を見ると、課題解決のためにいろんなスキルを発揮されているんです。それこそ百姓的センスで、広義のデザインをされていて、リノベーションも土木もできる。
隈 その点で言うと、建築って、やっているといろんな課題が周りにあることが見えてくるんですよ。でも、それらは建築物だけで解決しようとしてもできないんです。だから私の事務所も、家具とかグラフィックデザインとかランドスケープとか、百姓的に多様化している。建築家は建築物を建てなければいけないと自分の職業を限定すると、武士の世界にはまり、抜け出せなくなる。
「場所の神様」が求められる時代
MOTOKO ところで、話が変わるんですが、隈さんにすごくお伺いしたいことがありまして、戦前の日本って天皇を神として崇め、高度経済成長期以後は資本主義が神だったと思うんですが、今回の五輪が終わったら、次の神様は何になるのかな、って……。
隈 僕はやっぱり“場所”に神様がいるって感じになると思う。昔の日本にはそれぞれの場所に小さな神様がいたんですね。それが近代以降、一神教になった。だから、これからはこの単一の神様からどうやって抜け出すかが課題のような気がするなぁ。地形も複雑、気候もバラバラ。そういうところに住んでいるわれわれに一番合っているのが「場所の神様」だと思いますね。
井上 今のお話を聞いて、隈さんの本の中の「日本は小径木(しょうけいぼく)の文化だった」という一節を思い出しました。僕はその言葉に凄く感動したんです。日本の建物は太い木じゃなくて細い木(小径木)で建てる仕組みになっているというご指摘なのですが、それって裏山の木で建てられる仕組みになっているということですよね。
小径木のように、できるだけ小さなもので回していけば取り換えもきくし、それが永続的につながっていく。新しい国立競技場もそんな思いを込めて設計されたそうですが、これからは、そういう小さいけれど永続するシステムをそれぞれの地域が持つことが、円環的な時間の作り方であり、課題解決の手段となっていくんだな、と思いました。
隈 まさに小径木はそういう象徴になりますね。細くて短い木を、だましだまし組み合わせる日本の在来木造は、剛性は高いですが、柱の位置さえ自由に動かすことができます。この小さくて強くてやわらかいメソッドは日本の未来の循環システムのためのヒントになるんじゃないかなと思っています。
隈研吾 Kengo Kuma
建築家。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案。コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。
井上岳一 Takekazu Inoue
日本総合研究所、内閣府規制改革推進会議專門委員、GOOD DESIGN Marunouchi「山水郷チャンネル」ディレクター。森のように多様で持続可能な地域社会の実現をめざし、官と民、技術と伝統、マクロとミクロをつなげる研究、実践活動に取り組む。
MOTOKO
写真家、ローカルフォト主宰。音楽媒体や広告分野で活躍する傍ら、2006年より日本の地方のフィールドワークをはじめる。以降、ローカルフォトという写真によるまちづくり事業を小豆島、神奈川県真鶴町、愛知県岡崎市など、全国各地で行う。