書評・エッセイ

2021年10月号掲載

「素人にこんなオモロイ本を書かれたら困るがな」的な医学エンタメ

ビル・ブライソン『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』

仲野徹

対象書籍名:『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』
対象著者:ビル・ブライソン/桐谷知未訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507231-5

 医学系書籍の現状と将来について講演する機会に、いくつかの提案をしたことがある。その時、特に重要性を強調したのは、良き書き手の育成である。売れ筋の医学系書籍をしらべてみると「トンデモ本」が並んでいて愕然とする。その理由のひとつは、まともな医学系書籍は面白くない、あるいは、面白く書ける人が少ないということにある。できれば「このようなオモロイ本を書けるような著者を育てるべきだ」と例をあげて話したかったのだが、あまり適当な本を思いつけなくて諦めた。その講演のすぐ後で、本書を読む機会があった。あぁ惜しい、タッチの差であった。この本を知っていたら胸をはって紹介できたのに。
 この本、まず何しろ面白い。それだけでなくて、わたしのような医学研究者にとっても、知らないことが多くて勉強になった。著者はいったい何者なのかと、ビル・ブライソンがこれまでに書いた本を調べてみた。多くは旅行関係で、他には『人類が知っていることすべての短い歴史』(新潮文庫)とか、どれも医学とは関係がない。医学に明るい優れた書き手が必要であると偉そうにいいながら、おいおい、素人にこんなレベルの本を書かれたら困るがな、というのが、著述を兼業とする医学専門家としての正直な感想だ。同時に、いや、素人だからこそ専門家的な「常識」にとらわれずに書けたのではないかという気もする。純粋に自分が面白いと思うことを、他人を面白がらせるように書いてある。しかし、ここまで内容が正確なのは驚きだ。取材や調査が膨大であったに違いない。
 いきなり目にはいってくる第一章の扉は映画『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』で主人公ホームズを演じた有名映画俳優の蝋人形写真だ。そのタイトルは「ベネディクト・カンバーバッチのつくりかた」。いったい何が書いてあるのかと読んでみると、カンバーバッチを原材料からつくるとしたら、いったいどれくらいの費用が必要かという内容である。なるほど、つかみはこう来るかと思っていたら、話はそこから、からだの設計図である遺伝子、その物質的基盤であるDNA、さらには全遺伝情報であるゲノムへと急展開する。いやぁ、うまいっ!
 どの章の扉写真もひねりが効いていてニヤッと笑える。「第十七章 わたしたちの下半身で何が起こっているのか」では、細胞内でエネルギーを産生する小器官であるミトコンドリアがデザインされているのだが、見ようによってはペニスだ。というより、そう見えるように意図されているとしか思えない。本文の内容も、Y染色体は父から子へ、ミトコンドリアは母から子へと伝わるというようなお堅い話から、男女の生殖器の話や、ヒトがセックスにかける時間や頻度までと幅広い。なるほど、扉写真はうまい具合にこういったトピックスの隠喩にしてあるようだ。
 これら二つの章からわかるように、内容は変幻自在にして縦横無尽だ。いかに多岐にわたっているかを知ってもらうために、あちこちの章から小項目をいくつか紹介すると、「皮膚と人種差別」、「脳と人格は関係があるか」、「アメリカに提供された七三一部隊の研究成果」、「胃に穴があいたままの男」、「睡眠不足がわたしたちにもたらすもの」、「セックスという優れた『生存戦略』」、「よい痛みと無意味な痛み」、「どこからともなく現れ、消えていくウイルス」、「がんは『許可なき自殺』」、「人が死んだあとに起こること」などなど。むっちゃそそられませんか?
 全部で二十三章もあるので、それぞれは十数ページから二十数ページと短いものだ。なので、各章のテーマについて網羅的に詳細に説明されている訳ではない。ただし、簡潔ではあるけれども知っておくべきツボは確実に押さえてある。そのうえ、ユーモアたっぷりな書きぶりで、文章に切れ味がある。さらには、あちこちにある捨て台詞もいい。下世話きわまりないが、先に紹介した第十七章では精子の噴出距離にまで話が及んでいる。平均は十八~二十センチで「約一メートルの射出が科学的に記録されている」と書かれている。普通はここまでだろう。しかし、「どんな状況での記録かは明記していない」と、誰もが気になること(?)を、きちんと括弧内に書き添えてくれている。ブライソン、なんと親切なんだ。
 いやぁ、これだけの内容だと、米国ではさぞかし売れたのだろうと原著をアマゾンで検索して我が目を疑った。なんと、レビュー数が一万を超えているではないか。もちろん、☆の数の平均は四・五と高評価だ。
 最初に述べた講演では、良き書き手だけでなく同時に良き読者の育成も必要であると力説した。面白い医学本を読んだので、さらにいろんなことが知りたくなった。また別の本も手に取ってみよう。この本を読めば、そう考える人が増えてくれるにちがいない。素晴しい一冊ではないか。

 (なかの・とおる 生命科学者、大阪大学大学院教授)

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