書評・エッセイ

2021年10月号掲載

私の好きな新潮文庫

文庫本にも歴史あり

川島幸希

対象書籍名:『坊っちゃん』/『萩原朔太郎詩集』/『晩年』
対象著者:夏目漱石/河上徹太郎編/太宰治
対象書籍ISBN:978-4-10-101003-8/978-4-10-119701-2/978-4-10-100601-7

(1)坊っちゃん 夏目漱石
(2)萩原朔太郎詩集 河上徹太郎編
(3)晩年 太宰治

 文庫本は初版本コレクターの天敵である。高額な初版本を嬉々として買う種族にとって、「文庫でも読めるのに(バカじゃないの)」という言葉ほど苦々しいものはないからだ。その「元天敵」(コレクターは引退したので)についての寄稿依頼が来た。大学のゼミのテクストとして新潮文庫にはお世話になっているが、それよりもやはり初版本の視点から書いていきたい。

坊ちゃん書影  夏目漱石『坊っちゃん』は、雑誌『ホトゝギス』に掲載後、明治四十年一月『鶉籠』(春陽堂刊)に『草枕』『二百十日』と共に収録された。初めて本のタイトルになったのは大正三年十一月のことで、こちらも春陽堂から縮刷版『坊ちやん』が出ている。新潮社も同月に『坊っちやん』(代表的名作選集第二編)を出版したのだが、残念ながらわずか一日だけ発行日が遅かった(前者は十八日、後者は十九日)。
 実は、新潮文庫はこの年の九月十八日に創刊された。従ってそこに『坊っちゃん』が入っていれば、「最初の『坊っちゃん』というタイトルの本」なる「栄誉」は新潮社に輝いたであろう。ただ当時、新潮文庫は「小型本翻訳叢書」としてスタートし、最初の六冊はすべて翻訳書なので、そのチャンスはなかった。『坊っちゃん』が新潮文庫に初登場したのは昭和十二年四月で、タイトルは『坊つちやん』。ちなみに新潮文庫の累計ベストセラー第一位『こころ』は、昭和二十七年二月刊行である。


萩原朔太郎詩集書影  萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』は、日本で口語自由詩を確立した近代詩史上に燦然と輝く名詩集だが、その初版本がまた本当に素晴らしい。恩地孝四郎の装丁と夭折の天才画家田中恭吉の挿絵が朔太郎の詩と絶妙なまでにマッチし、さながら詩画集の趣がある。
『月に吠える』が新潮文庫に初めて入ったのは昭和十一年四月。朔太郎の生前であり、文庫本では最も早い(岩波文庫収録は昭和二十七年一月)。ただしタイトルは『現代詩人全集14 萩原朔太郎集』であった。初版本の風合いは再現できるはずもないが、せめて『月に吠える』という名前だけは残したい。それが実現したのは昭和三十年二月で、『月に吠える他 萩原朔太郎詩集』が刊行された。
 現在、新潮文庫の新刊で手に入るのは『萩原朔太郎詩集』(昭和二十五年十二月刊の改版)のみで、『月に吠える』という名前は消えてしまった。残念な気もするが、一冊の文庫本に朔太郎の代表的な詩集の抄録が網羅されているのだから仕方がない。この本で関心を持った方は、是非初版本の復刻版で『月に吠える』を読んでほしいと思う。通販サイト「日本の古本屋」などで簡単に購入が可能。三千円くらいで買える。


晩年書影  太宰治『晩年』は彼の処女出版本である。およそ第一小説集にそぐわないタイトル(作品名ではない)は、当時薬物中毒に侵されていた太宰が、「もう、これが、私の唯一の遺著になるだらう」と考えて付けた。『人間失格』に至るその後の太宰文学の見本市の如き重要な小説集で、吉行淳之介は「太宰治のエッセンスは、すべて「晩年」一巻の中に集まっている」と語っている。
『晩年』の初版本は昭和十一年六月、砂子屋書房刊行。昭和二十二年十二月、新潮文庫からも出された。太宰の作品が新潮文庫に入るのはこれが初めてであり、雑誌『新潮』連載の『斜陽』(『晩年』の五日後に新潮社より単行本化)が話題となっていたことと無縁ではなかろう。
 文庫本『晩年』の出版は、当時企画されていた八雲書店版『太宰治全集』の刊行順に影響を与えた。かち合うのを避ける太宰の意向により、第一回配本(昭和二十三年四月)が第一巻『晩年』から第二巻『虚構の彷徨』に変更となったのである。そしてこれにより、太宰が第一巻『晩年』を手にする機会は永遠に失われた。その配本前に彼は命を絶ったからである。
 このように、新潮文庫所収の近代文学の名作にはそれぞれ物語がある。「初版本でも文庫本でも内容は同じ」と同様に、「どの文庫本で読んでも内容は同じ」と考える人も多かろう。しかし前者はもちろん後者にも与しない。文庫本も歴史と伝統を大切にしたいから。そしてその由緒正しさこそが「私の好きな新潮文庫」なのだ。

 (かわしま・こうき 秀明大学学長)

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