書評

2021年10月号掲載

夢と魔法の世界を支える現実の物語

松岡圭祐『ミッキーマウスの憂鬱ふたたび』

東えりか

対象書籍名:『ミッキーマウスの憂鬱ふたたび』(新潮文庫)
対象著者:松岡圭祐
対象書籍ISBN:978-4-10-135752-2

 四十年以上前、不動産会社で働いていた父から「東京湾の埋め立て地にすごい遊園地ができるらしい」と聞いた。それが一九八三年四月に浦安に開園した東京ディズニーランド(TDL)である。オープニングスタッフの友人が開園前のプレビューに招待してくれたが、ディズニーに興味のない私でも「夢と魔法の国」に魅了された。
 あれから三十八年。二〇二〇年から始まった新型コロナのパンデミックで約四か月の休園を余儀なくされたが、その後、時短営業や入場制限をかけて営業を再開し、変わらぬ人気を誇っている。
 十九歳の永江環奈は市川塩浜駅近くの住宅地に両親と姉の四人で暮らしている。高校卒業後、東京ディズニーランドにカストーディアルキャスト(掃除スタッフ)として就職した。ランドとシーで働く従業員のうち、キャストと呼ばれる人は基本アルバイト。併せて二万人、一日に働く人数は九千人と言われている。
 彼らはゲストから見えないバックヤードで身支度を済ませる。可愛くて派手なコスチュームのダンサーやアトラクションキャストなどに比べ、青ジャケットに白の蝶ネクタイ、白のスラックスを身に着け、白のハンチング帽のカストーディアルキャストは見た目も仕事も地味であることは間違いない。
 TDLのカストーディアルといえば「そうじの神様」としてウォルト・ディズニーが最も信頼したチャック・ボヤージン氏が有名だ。アメリカのディズニーランドの開園当初からこの仕事の基礎を作り、TDLのキャスト教育にも貢献した。
 彼が作った規則は厳格だ。仕事中は常に「ディズニースマイル」を心掛け、ジュースなどがこぼれていてもゲストがぶつかって怪我しないように腰をかがめず足で拭き取らなくてはならない。ゲストのリクエストがあれば彼らの仕事道具であるトイブルームという名のホウキを使って地面にミッキーを描く。
 母親の反対を押し切って就職した環奈だが、働きはじめて一年、徐々に不満が募ってきていた。環奈のようなキャストにはバックステージでもディズニーキャラクターの正体は明かされない。秘密はずっと秘密のまま。キャストとはいつまでも半分ゲストという中途半端な身分なのだ。その上、キャスト内にもカーストがあり、カストーディアルは最底辺だと思うと仕事にも身が入らない。
 そんな時、アンバサダーの鈴本彩芽が任期満了となり次のアンバサダーの公募が始まった。全キャストから一名のみ任命される特殊な役職であるアンバサダーは、名実ともにディズニーリゾートを代表する存在だ。
 環奈はそれに立候補することを決める。カストーディアルキャストのエントリーは前代未聞。人目を惹く技能もなければ目立つような業績もない環奈は圧倒的不利だと上司から言われても、周りの後押しもあってアンバサダーを目指す研修が始まった。
 三十人のアンバサダー候補にはその証であるウサギのオズワルドのバッジを付けることが義務付けられている。同僚はそのバッジを付けた候補者の仕事ぶりなどを評価し、得点として数値化した後に、最終選考会で投票によって一位を決める。最初はビリだった環奈だが、魔法のような技術を身に着けることで人気キャストに成長していく。さながら魔法使いによってお姫さまに変身したシンデレラのようだ。
 だが世の中は夢と魔法では動かない。妬(ねた)み、嫉(そね)み、会社の事情、地位や名誉が絡んでくれば、大人の仕事は綺麗ごとでは済まされない。アンバサダーの研修だけでなく、やりがいがないと思っていたカストーディアルキャストの仕事を全うすることで、環奈はぐんぐんと成長していった。
 松岡圭祐氏は取材力に定評があり、ストーリーテラーとして名高い作家である。本作でもTDLの裏話や登場人物のちょっとした特技が見事な伏線となって張り巡らされており、後半、組み立てられた物語に回収されていく見事さにはすっかり感心してしまった。
 十六年前、松岡氏は『ミッキーマウスの憂鬱』という作品を上梓している。当時「史上初のディズニーランドの裏側を描いた小説」として話題となったが、本作の意外さはそれの上を行く。前作の主人公の青年が見事に成長して活躍するのもなんか嬉しい。
 ディズニーのそうじの神様、チャック・ボヤージン氏のゲストを大事にする精神は今も健在だ。大事なところで流れるメリー・ポピンズの主題歌「お砂糖ひとさじで」の歌詞「ひとさじの砂糖があるだけで苦い薬も飲める、辛い仕事さえ楽しくなる」は環奈の心そのままだ。
 夢と魔法の国を支えているのは誠実で正しい心を持つキャストやスタッフたちなのである。

 (あづま・えりか 書評家)

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