書評・エッセイ

2021年12月号掲載

ペスト禍の時代を生きた「顔のない」シェイクスピア

マギー・オファーレル『ハムネット』(新潮クレスト・ブックス)

松岡和子

対象書籍名:『ハムネット』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:マギー・オファーレル/小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590176-9

 ジャーメイン・グリア著『Shakespeare’s Wife』が世に出たのは二〇〇七年。ジェンダー意識の高まりと共にアン・シェイクスピアへの関心も高くなった証かと思っていたら、今度は『ハムネット』の登場である。その巻末の謝辞には前者の書名も挙がっている。
 シェイクスピアは十八歳のときに八歳年上の女性と結婚し、半年後に長女が誕生した。その翌々年には男女の双子が生まれ、ハムネットとジュディスと名付けられた。ハムネットは十一歳のときに死んだ。こういうことは史実として分かっている。
 だが、妻がどんな女性だったか、読み書きはできたか、二人はそもそもどこでどう出会ったか、シェイクスピアがロンドンに出たのはなぜで、いつどうやって劇作家になったか、ハムネットの死因は何か、シェイクスピアは一六一〇年ごろの引退前に故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンに戻ったことがあったか否か、などは分かっていない。したがってこれらに関しては諸説紛々。
 そういうあまたの「分かっていないこと」にマギー・オファーレルの豊かな想像力が吹き込まれた結果、独立心と生活力にあふれた女性が立ち上がり、生き生きとした当時のイングランド中部の街や村の暮らしが蘇った。
 物語は、ハムネットが死んだ一五九六年夏のストラットフォードと、一五八二~八六年との間を往還する。そこに先述の「分かっていること」と作者の想像力の産物が織り込まれる。
 妻アグネス(アニエス?)は地主の娘で、生母と父を亡くしたあとは、弟と継母とその子供たちと暮らし(ここまでは史実)、養蜂をし、本草学に通じ、やがて民間医療も手がけるようになる。手相も見る。読むことはできるが書くのは苦手。若きシェイクスピアが家庭教師として彼女の異母弟らにラテン語を教えにきたときに出会い、結婚後は夫一家と暮らす。夫は、父の家業である革手袋の製造販売拡大のためロンドンに出て、俳優から舞台衣装の手袋の注文を受け、それをきっかけに芝居の世界に入る。
 そして一五九六年の夏を迎えるのだが、作者はハムネットの死因をペストにする。シェイクスピアが生きた時代、人々は常にペストの脅威にさらされていた。シェイクスピアが生まれたのは一五六四年四月二十三日とされているが、その数ヶ月後にペストが彼の生地を襲い、市民の五分の一が命を落としたという。生まれたばかりのウィルを含むシェイクスピア一家はこのペスト禍を免れたが、劇作家になってからの彼も、大きなペスト感染の波を三度以上浴びている。たとえば一五九二~九三年、一六〇三~〇四年、一六〇八~〇九年。
 本書ではノミがペストを伝染させる経路――ヴェネツィアのムラーノ島からアレクサンドリアやコンスタンチノープル、カディスなどを経てロンドンへ、そしてストラットフォードへ――の語りに一章が割かれている。
 先にペストにかかったジュディスを助けようと、ハムネットはジュディスの服を着てベッドに横たわる。彼女を連れにきた死神をたぶらかそうというわけだ。シェイクスピアの戯曲には双子が出てくるものが二本ある。『間違いの喜劇』と『十二夜』。『十二夜』の双子は男と女だ。女のヴァイオラが兄と同じ服装をした結果、取り違えが起きて、てんやわんやに。オファーレルは明らかにそれを取り入れている。卓抜なアイディア、鮮やかな逆流だ。
 ハムネットが病気になったとき、シェイクスピアの劇団、宮内大臣一座はケントにいた。これは事実。しかし、息子の葬儀のためにストラットフォードに戻るのは無理。そもそも知らせるのも無理。だが『ハムネット』の作者はそれを可能にし、父は息子を墓まで運ぶ。
 というわけで、ウィリアム・シェイクスピアの妻や子供たちの日常や出来事が語られるのだが、ここにはシェイクスピアという姓もウィリアムという名前も、ただの一度も出てこない。「父ジョンの息子」「アニエスの夫」「ハムネット(スザンナやジュディス)の父」、「イライザの兄」といったふうに他の人物たちとの「関係」でしか言及されない。その結果、名前も顔もあるアニエスやハムネットやジュディスらの中にあって、「彼」は顔のないブラックホールとなる。人としてのミステリアスさが深まる。
 注文をつけることが許されるなら、ウィリアム・シェイクスピアが遺書に「妻には二番目に上等のベッドを譲る」と書いたことへのアニエスの反応を、それこそ想像力を駆使して書いてほしかった。妻がはるばるストラットフォードからロンドンに出てきて『ハムレット』の初演を見たという大胆な想像をした著者なのだから。


 (まつおか・かずこ 演劇評論家/翻訳家)

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