対談・鼎談

2021年12月号掲載

小泉今日子『黄色いマンション 黒い猫』文庫化記念対談

私たちのあの頃

小泉今日子 × 本木雅弘

ともに1982年に歌手デビューし、アイドルとして同時代を駆け抜けた二人。
小泉今日子が綴るあの頃の日々に、本木雅弘が自身の記憶を重ね、
同じ立場にいた仲間だからこそ分かち合えるアイドル時代の思い出と、
互いに知らなかったそれぞれの普通の日常、
そして、二人の不思議な関係性を語り合う。

対象書籍名:『黄色いマンション 黒い猫』(新潮文庫)
対象著者:小泉今日子
対象書籍ISBN:978-4-10-103421-8

小泉 本木君と私は、生まれた年は違うけれど同学年で、歌手デビューしたのも同じ一九八二年。

本木 小泉さんが三月で、僕たちシブがき隊が五月。その年は他にも多くのアイドルがデビューをしたので、“花の82年組”なんて言われてますね。

小泉 初めて会ったのは、レコードデビューする前の年でお互いにまだ十五歳だったから、知り合ってもう四十年にもなるんだ!

本木 ホント! 随分と長い付き合いになりますね。デビューしてからの数年間は、テレビの歌番組やイベントなどでよく共演していたから、私たちはいつも近くにいる存在でした。けれども案外、その頃の小泉さんについて知らなかった部分があったんだなと、エッセイ集『黄色いマンション 黒い猫』を読んでみてわかりました。

小泉 この本は、雑誌「SWITCH」の連載「原宿百景」に綴ったエッセイをまとめたもので、書き始めた二〇〇七年当時、私は四十代になったばかりだった。その時の私が、過去を振り返ってみたり、今、感じていることを、自分なりの文章で、少し長い時間をかけて書き続けてみようと思って始めたの。原宿を主題におきながら、でもそれだけではなくて、幼い頃の記憶、十代のまだ何者でもなかった少女時代の思い出、デビューしてからの日々、そして、現在の自分。私が生きてきたこれまでを、いろいろな時間軸の中で、実際の出来事やその時の気持ちを思い起こしながら書いてみたんです。

本木 ここに綴られているのは、小泉今日子という人が過ごしてきた時間であり、個人的な感情ですよね。けれど私は、まるで自分ごとのように感じながら読みました。原宿での出来事もそうだし、家族とのエピソードや、昭和の黒電話、あの時代の同級生たちの雰囲気、それはおそらく、小泉さんと私が同い年だからだろうと思ったんだけれど、我々より十歳下である私の妻も、同じように共感できると言って、涙を流しながら読んでいました。だから時代の感覚というだけでなく、誰が読んでも何か心に響くものがあるんですよね。太宰治の『人間失格』を読むと、ああ、自分のことを書かれているようだ、と皆が感じるでしょう。文章の種類としては違うけれど、読後感はあれと同じなのではないかな、と。小泉さんらしい、シンプルで軽快な言葉で綴られているんだけれど、情緒の伝わってくる素晴らしい文章でした。

小泉 わあ! そんな風に言ってもらえるなんてすごくうれしい。

本木 小泉さんは昔から、見つめた何かを自分の言葉にして表すことが得意でしたよね。十代の頃から読書好きだったことも、きっと影響しているんでしょうね。いつだったか、何かの用事で小泉さんに電話をしたら、「今、『モモ』を読み終わって放心してるから……」って、電話口でダマられたことがありました(笑)。

小泉 あははは! そんなことあったっけ。高校を中退してから勉強が好きになって、本を読むことにも夢中になっていたの。ドラマやCMの撮影現場へもいつも何冊か持っていって、空き時間ができると本を開いてた。

本木 とにかく本好きのイメージがあって、当時から、同世代の他の子たちとはどこか違う落ち着きを感じてましたよ。

アイドルとして駆け抜けた日々

本木 アイドルとしての活動も、既存の枠にとらわれず、常に表現が新しくて。裸体に絵の具を塗って「人拓!」とかさ(笑)。当時、私も小泉さんのライブを観に行っていたけれど、キュートで奇抜で、その破壊力にいつも驚かされてました。ミュージシャンやアーティストに、素材として自由に遊ばれる面白さも感じたし、まな板の鯉状態で平気で自分の身を晒す小泉さんの姿が実に爽快だった。

小泉 私自身も楽しんでたからね。たとえば、近田春夫さんにアルバムのプロデュースをお願いした時は、ハウスミュージックでいい? と言われて、はい! みたいな(笑)。ちょうどその頃、私も初めてハウスを聴いて、かっこいいじゃん! と思っていたから。

本木 アイドルがハウスなんて、当時は画期的でしたよ。そうして誰かに任せられる器の大きさが、小泉さんのかっこいいところ。

小泉 私がそんな風にできたのは、やっぱりとにかく無我夢中にがんばっていたデビュー後の数年があったからこそだと思う。あの時、ずいぶん鍛えられたから怖いものがなくなった(笑)。まだ十代半ばだったのに、私たちは本当にいろいろな経験をしたよね。

本木 大人たちに囲まれて、そして仕事をこなす。実に目まぐるしい毎日でしたね。歌のレッスン、振り付け、歌番組の生出演やラジオの収録、イベント、コンサート、雑誌の撮影……。太陽をまともに見てる時間がどのくらいあっただろうという感じで。

小泉 私たちが初めて一緒に仕事をしたのは、テレビ東京の歌番組「ザ・ヤングベストテン」(一九八一~八二年)だったよね。シブがき隊と少年隊の前身のグループが司会で、私はアシスタントガールだった。原宿の街の中でロケをすることもあったし、スタジオでは、客席に座ってフリップを掲げながら「今週のプレゼントはこちらで~す!」なんて言わされてた(笑)。先輩アイドルたちの曲を唄うコーナーもあって、近藤真彦さんの「情熱☆熱風 せれなーで」に合わせてアラブのお姫様の衣装を着て踊ったのをすごくよく覚えてる。でもその番組に出ていた頃は、本木君とはまだ仲良く話すという感じではなかったような気がする。

motokimasahiro

本木 翌年の春、お互いにレコードデビューしてからは、歌番組やイベントの場所で必ずと言っていいほど顔を合わせてたから、自然とあれこれ話すようになって。

小泉 レコード発売時には営業的なイベントもあったし、週末になるとどこかのお祭りに出演してたよね。公民館でメイクしてると本木君たちが来て、あ、今日もシブがき隊と一緒なんだ、と思ってた(笑)。

本木 ある時なんて、海を越えて、イタリアのサンレモ音楽祭でも一緒でしたよ。実際に唄ったのは、小泉さんだけだったけれど。

小泉 私、サンレモで唄ったの? 覚えてない(笑)。あの頃は、何かというと写真集や雑誌の撮影隊が同行して、まずパリに行ってスイスに寄って、最後にやっと本来の目的地であるイタリアに着く、みたいなことがたくさんあったでしょう。だからどこへ何をしに行ったのか、覚えてないことが多いの。

本木 「明星」「平凡」、その他にもあの頃はアイドル誌がいくつもあって、取材旅行ということで何度も外国へホイホイと連れていってくれたなあ。

小泉 本や雑誌が売れる時代だったんだよね。編集者の方が、私たちの見聞を広めるために一役買ってくれていたような気がする。

本木 いい時代でしたよね。とにかくそうして慌ただしい一年を過ごして、年末が近づくと怒濤の賞レースが始まる。日本レコード大賞、日本歌謡大賞、日本有線大賞……覚え切れないほど多くの音楽賞がありました。大晦日なんて、帝国劇場で「レコ大」(「輝く!日本レコード大賞」)に出演して、その後十分以内に「NHK紅白歌合戦」が始まるから、猛ダッシュでNHKホールに向かってましたよ。あの頃の「紅白」は、オープニングで出演者全員が揃いのブレザーを着て大階段から降りてくるという伝統の演出があって、そこに間に合うことが絶対条件だった。生放送のはしごも含めて、大晦日の一大イベントでしたから。日比谷の帝国劇場から渋谷のNHKホールに向かう道は、警察を動員して信号を全部青にしてもらうという異常事態でした。

小泉 大晦日のスター大移動(笑)。

本木 今では考えられないけれど、そういう時代だったんですよね。そしてもうひとつ、小泉さんとアイドル時代を語る時に忘れてはならないのが、新宿音楽祭の生卵事件。

小泉 あははは! 私の頭に客席から飛んできた生卵が当たった事件ね。

本木 これは小泉さんを題材にした小説作品『オートリバース』(高崎卓馬著)にも書かれているけれど、松本伊代さんのファンが、賞を取った小泉さんへの嫉妬心で卵を投げつけたと言われていましたよね。けれど実は、小泉さんのファンが、その横に並んでいた私たちシブがき隊に対して、「何でオマエらが小泉の横にいるんだ!」という怒りで僕たちにぶつけようとしたのが、誤ってご本人様に当たってしまった、というのが真相だったんですよ。

小泉 ね! 私もそれを聞いて、なんで私が自分のファンに生卵を当てられなきゃならないんだよ、ふざけんな!って思った(笑)。

本木 あははは! 五円玉や十円玉が飛んでくることもありましたよね。

小泉 飛んできたライターが唇に当たって、あっ、イッタ~い、どんどん腫れてく……と思いながら唄い続けたこともあった。硬い物は投げないでよ、と思ってたもん(笑)。毎日がファンとの戦い、みたいな気分だったよね。

本木 ありがたいやら何やらで(笑)。

世界を広げてくれた本と大人たち

小泉 ちょっと前まで普通の中学生だったのに、突然そんな毎日になったでしょう。今振り返ると、よくがんばって耐えていたなと思うよね。

本木 周りの環境や自分の日常が、ガラッと変わりましたからね。シブがき隊のデビューイベントは北海道の某デパートの屋上で開催したんだけど、客席から紙テープやら白い恋人やら、果てはジャガイモまで飛んできて(笑)。ファンの子たちの興奮を初めて目の当たりにした時、うれしいというよりも、え? 何これ? って。どうして俺たちこんなに人気があるの? と、不思議で仕方がなかった。

小泉 自分のいる状況に、気持ちが追いつかなかったよね。

本木 そうそう。先輩であるたのきんトリオの大活躍をずっと見ていたから、へ? 俺たちでいいの? って。女の子たちに騒がれるという現象に素直に浮かれている自分も多少はいたけれど、客観的に見ている割合の方がずっと大きくて、少し冷めていたというか、所在ない感じがしばらく続いてました。

小泉 私は十代の子どもながらに一生懸命考えて、騒がれるのがイヤで、この状況にも耐えられなくなったらやめちゃえばいいや、と思ってた。でもいざやめるとなると面倒くさいし、じゃあどうしたらいいかなと考えた時に、もう受け入れるしかないんだ、と気持ちを切り替えることができたの。

本木 私も小泉さんと同じで、この状況でいいのか、自分はこれを受け入れられるのか? と、いつも自問自答してました。一九八八年にシブがき隊としての活動を終えるまで、ずっとそんな風に悩んでいたかもしれない。

小泉 本木君はグループだったからね。自分一人が受け入れても、他の二人の意見が違うと、また同じ悩みを悶々と繰り返してしまいそう。それは当時、端から見ていても感じてたよ。その点、私は一人だったから、気が楽だったかもしれない。私が決めれば、その方向に動くわけだから。

本木 そういう意味では、一人で判断できる環境がうらやましかったです。私は小泉さんほど腹を決めてアイドル道を進めてはいなかった。与えられた役割を懸命に演じながらも、こうではない、本当の自分を誰かにわかってほしい、という気持ちがどこかにあったように思います。

小泉 私もそんな時があったけれど、本を読むことで自分の世界に入って、気持ちを落ち着けていたのかもしれない。それにあの頃、周りにいい大人たちがたくさんいて、いろいろなことを教えてくれたでしょう。私は十代の終わり頃、原宿の黄色いマンションに一人で住んでいたんだけど、その近くにあったピテカントロプス・エレクトスというクラブのようなところで、スタイリストのお姉さんたちに遊んでもらいながら、ファッションのこと、音楽のこと、海外を旅する楽しさ、いろいろなことを教えてもらった。

本木 私も十九歳で初めて一人暮らしをして、その頃から自分の気持ちが変わり始めました。クリエイターやファッション界の人たちと出会い、その活動や考え方に影響を受けて美意識や自意識が変わったし、自分の価値観と向き合えるようにもなった。そして僅かながら、自分に自信がつき始めたような気がします。

小泉 テレビ局やスタジオを行き来するだけの毎日の中で、違う仕事をしている年上の人や、同年代の友だちと会うのはすごくいい刺激になったし、彼らと過ごす時間に救われたよね。

本木 知らない世界と自由を広げてくれる存在でしたね。

小泉 あの当時出会った年上の人たちは、もう七十歳を過ぎている人もいるけれど、みんな元気なの。時々、スタイリングやヘアメイクをお願いすることがあるけれど、今でも本当に楽しそうに仕事してる。でも一方で、亡くなってしまった方たちもいて。「原宿百景」では、原宿のお店の人や街にゆかりのある人たちに会ってきたけれど、『黄色いマンション 黒い猫』の装丁をしてくださった和田誠さんや安西水丸さん、ゴローズの高橋吾郎さん、クリームソーダの山崎眞行さん……今ではもう会えない人もたくさんいる。

本木 人だけでなく、セントラルアパートやパレフランスなど、無くなってしまった思い出の場所が原宿にはたくさんありますね。

小泉 そうだね。十代の頃からいろいろな人や場所に出会って、自分の在り方や生きる意味をひとつずつ積み重ねてきたからこそ、今、自分はここに立っているんだなと感じるね。

それぞれの道を歩く互いの存在

小泉 シブがき隊としての活動を終えてから、本木君は本格的に俳優としての道を歩み始めたよね。その頃から、私たちはアイドル時代のように頻繁に会うことはなくなったけれど、本木君の活躍はいつも気にして見てた。あ、今、あんなことをしてるんだ、って。

本木 私もそうです。小泉さんが舞台にも出演するようになってしばらくしたある時、堤真一さんと共演された作品を観に行ったんですけど、小泉さんが役者としてまた進化していることにとても驚いてね。その感激を素直に小泉さんに伝えたら、「ありがとう。ここに来るまで十年かかったけどね」と言っていて、私はその言葉を噛み締めながら帰りました。十年の積み重ねによる厚みが、舞台上での佇まいから声の出し方、印象の残し方まで、全てに表れているんだな、と。いつもど真ん中にいた人なのに、脇役も汚れ役もやるよ、と覚悟を決めて挑んでいたし、そのうち、今度は自分で会社を設立したでしょう。あれもすごく衝撃的でした。え~、裏方に!? って。私からすると、小泉さんはアイドル時代から非常に男っぽいエネルギーで自分の道を切り拓いて進んでいる印象があって、私は逆にそれを追いかけてる女子、みたいな感じ(笑)。

小泉 あはははは!

本木 小泉さんと私は、アイドル時代の頃から男女が逆転したような関係でしたよね。

koizumikyoko

小泉 「ねえ、本木君! しっかりしなよ!」っていつも言ってたね(笑)。でも私は逆に、ひとつのことをじっくり考えて、一歩ずつゆっくり進めていく本木君のやり方に、どこか憧れている部分がある。彫刻を彫るみたいに、美しく丁寧にきちんと作品を仕上げていくような仕事の仕方でしょう。

本木 いや、全ては不器用というコンプレックスの裏返しなんですけどね。

小泉 本木君って、十代の頃から本当に繊細だったよね。こんなに神経を使って、この人、死んでしまうんじゃないの? と本気で心配だったもん。ここまで生きてきたんだから、長生きしてほしいよ(笑)。

本木 そうですね、本当に。これからも小泉さんの背中を追って生きていきますよぉ(笑)。

小泉 私たちもあと四、五年で還暦。赤い服を着て合同で還暦パーティーでもしようか(笑)。なんて、この年になってもこんな風に楽しく話せる友だちがいるって本当に幸せなことだね。


 (こいずみ・きょうこ 歌手/俳優)
 (もとき・まさひろ 俳優)

*本対談は雑誌「SWITCH」2021年12月号「原宿百景」との連動企画です。ぜひ、あわせてお楽しみください!

最新の対談・鼎談

ページの先頭へ