書評

2021年12月号掲載

人が歌う歌

小佐野彈『僕は失くした恋しか歌えない』

上田岳弘

対象書籍名:『僕は失くした恋しか歌えない』
対象著者:小佐野彈
対象書籍ISBN:978-4-10-354311-4

 ある仕事で、海外のアーティストの方とお話しする機会が続いている。アーティストと言っても、ミュージシャンではなくて、原義としての芸術家、中でもコンテンポラリーアートの人がほとんどだ。彼らと対話していて感じるのは、アートと技術の深い関係性についてだ。新しいテクノロジーが生まれると、そこからアートが生まれる。例えば、医療用に開発された人工筋肉。それを健常な体に埋め込んでみて新たな作品を試みる。あるいは自分の思考に似せたAIをつくり、作品を出力させ、それ自体を作品とする。
 近頃ではこのAIについて語る人が増えてきた印象だ。話が進むと、AIと人間、その究極的な違いは何だろう? という議論になる。
 人間には個があって、その個はしがらみを持っている。例えば、自分は日本人で、男性で、どこどこ出身で、どういう親から生まれてきて……。生まれや育ち、そういったものとは関係なく、能力や適性、それから本人の意思によって、人生は切り開かれていくべきものだとするのが近代以降の基本的なあるべき態度なのだと思うが、しがらみからの解放を目指していった先にあるのは結局のところ究極的に効率化された世界に過ぎないのではないか。そう考えた時、その唾棄すべきと思われがちなしがらみが途端に別の意味を帯び始める。ある対談の中で僕はそれを傷口と呼んだ。AIには傷口がない、人間には傷口がある。AIはその傷を塞ぐ方向に進歩していくだろう、人間は快癒やそこからの解放を望むだろう。
 本著『僕は失くした恋しか歌えない』の語り手は、著者のパーソナリティに密着している。著者の小佐野彈氏は自身のセクシャリティを通奏低音にした連作「無垢な日本で」にて第60回短歌研究新人賞を、第一歌集『メタリック』で第63回現代歌人協会賞をそれぞれ受賞した後に、小説『車軸』を発表し、以後短歌と小説の両方で精力的に創作を続けている。Wikipediaによれば、国際興業グループの創業者である小佐野賢治を大伯父に持ち、同性愛者であることを公表しているいわゆるオープンリーゲイ。桁違いの金持ちの一族に、セクシャルマイノリティとして生まれたことは、一個人としての人生の在り方に甚大な影響を与えるだろう。けれどそれは、どこまでも個人としての話であって、今書かれるべき小説を書くという意味ではむしろ邪魔になることもあるだろう。
 本書の語り手であるダンは、著者のプロフィールを引き継いでいる。つまり、極度の金持ちの子供で、ゲイである。家柄に相応しく、慶應に小学校から通っている。性の芽生え、それはダンにとって自身がセクシャルマイノリティであることを認める壁にぶつかっていくことでもあった。性愛の対象が同性であることに気付いたのは、中学生の頃。ダンは同じクラブ活動の先輩に恋をした。先輩に恋をするのはありがちな話のはずだけれど、それがダンの場合「他人と自分とは違っている」という受け入れがたい事実が眼前につきつけられることになる。20年以上前、この国ではテレビのコメディショーでおかまキャラが嘲笑の対象として登場し、同性愛者への無理解は今の比ではなかった。今ではその存在が広く知られるにつれ、表面上の理解は広がっているように見られるが、実際に自身がセクシャルマイノリティであった場合に、マジョリティにあると偽装したくなる気持ちに抗える人がどれだけいるだろう? 本書でつづられる、中学時代の先輩への初恋、高校時代のはつらつとした後輩への恋、大学時代の少し陰のある優しい先輩への恋、ダンの終わった恋の遍歴はそのまま「このように生まれてきた自分自身」を正面から受け止めようとした経緯でもある。最初から物質的にも環境的にもすべてが与えられる富豪の一家として生まれたことは、個人的な壁を乗り越えた時に獲得したものの空虚さをあらかじめ課されているともいえる。恵まれていることは助けにならず、むしろ自分自身の傷口への集中を要請する。
 自身も会社経営をする小佐野彈氏が、それだけでは飽き足らず、歌人となったことは必然だったのだと僕には思える。そしてそれにも飽き足らず氏は小説を書き始めた。自伝と創作の間にある本書は、自身の傷口を今一度自分に引き寄せようとした軌跡であり、歌人であり小説家でもある小佐野彈氏の諸作品の生まれ出る源泉を記したものなんだろうと思う。
 これからも氏はきっと、色々なものを失くしていくのだろうし、それを歌い続けるだろう。
 誰しもがいろいろなものを失う、けれど誰しもが歌えるわけではない。


 (うえだ・たかひろ 作家)

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