書評
2021年12月号掲載
別れの達人と、別れの処方箋
大森あきこ『最後に「ありがとう」と言えたなら』
対象書籍名:『最後に「ありがとう」と言えたなら』
対象著者:大森あきこ
対象書籍ISBN:978-4-10-105281-6
あれは、はじめて上京して家を借りようとしていたときのことだ。
相場よりもずっと安い家賃の物件を見つけて、その安さといったらもう不安になるくらいの安さだったので、おそるおそる不動産屋にたずねた。
「これって、あの、いわゆる事故物件じゃないですよね」
それに対する、不動産屋の返しはこうだった。
「大丈夫ですよ。この日本で、人が死んだことのない土地なんてありませんから」
そのときは、いらんトンチを利かせとる場合かと呆れたが、なるほど、うまいこと言うもんである。人は生きていれば、かならず死ぬ。お別れの儀式は200万年前から続いている。死と葬儀は、わたしたちにとって身近で、とてつもなく古い物語なのだ。しかし200万年経っても、わたしたちは戸惑い、悲しみ、乗り越えようともがいている。古い物語の中には、ひとつひとつの、固有の新しい物語が集まっている。
納棺師・大森あきこさんが本書で綴った25篇の死の実話には、丁寧に削り選ばれた短い言葉の中に、想像し尽くせない人生の奥行きが感じられる。不思議なことに、一篇を読み終えるごとに、自分にとっての大切な誰かが思い起こされ、記憶の像が結ばれる。喜び、安堵、後悔、いろんな感情が静かに湧き上がってくる。
この本は、すべての人が今まで経験した、またはこれから経験しうる、死という絶望への処方箋が詰まっているのだと気づいた。わたしがこの本から受け取った、ひとつの処方箋は、「別れを乗り越えるために必要なのは、別れの時間である」ということだ。
大森さんは、これまでの納棺で出会ったご遺族の中には「お別れの達人」がいるという。亡くなった人との時間を自然に振り返ってくれる人だ。ご遺族の悲しみや思い出を葬儀で共有する時間が、「別れ」を「出発」にゆっくりと変えてくれる。わたしは、16年前に亡くなった父の葬儀で会った父の友人のことを思い出した。彼はお別れの達人だった。
そのときのわたしは、急な父の死を受け入れられず、呆然とするか、泣き叫ぶかを、何十時間も繰り返していた。穏やかな顔でてきぱきと準備する葬儀社の人々を、見るのがいやだった。父の死を悲しんでくれていない気がした。涙ながらに同情してくれる参列者の人々と、話すのがいやだった。あなたたちは葬儀が終わって家に帰ったら、生きてる家族がいるからいいよねと妬んだ。わたしは誰かを恨むことで、“こんなはずじゃなかった”と父の死を受け入れまいとした。
そんなとき、彼はやってきた。父の前で手を合せ、震えた深い溜息と涙を一筋流し、わたしに一枚の映画のDVDを渡した。
「わたしにとってお父さんは、その映画に出てくるお父さんと同じ存在です。同じようなことをいつもわたしに伝えてくれました」
わたしがその映画「ビッグ・フィッシュ」を見たのは、3年後のことだった。そこには確かに父がいた。父がわたしに伝えたかったであろう言葉が詰まっていた。わたしは彼にメールを送り、そこでようやく、父がわたしの知らないところでも、多くの人に愛されていたことを思い知った。誇らしさが、悲しみを上回っていった。
長い時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり、父との別れをわたしが受け入れられたのは、あの時、準備をしてくれた葬儀社の人々のおかげでもある。わたしが普通ではないときに、普通にしてくれていた。穏やかそうな顔をしていたけれど、本当は、心を痛めながら、最善を尽くしてくれたのかもしれない。
大森さんの思いを受け取ると、過ぎ去った葬儀の苦い思い出すらも、新しい印象と感謝が重ねられる。16年という時間をかけてもなお、わたしは父の死を温かな力に変え続けている。
家族を愛するとは、そばにいることではなく、愛しい距離を探ることだと、わたしはエッセイで書き続けてきた。でも距離は、相手が亡くなってしまったあとでも動き続ける。なぜなら、時間は流れ続けるから。絶望を引き起こすその距離を、どう捉え、どう過ごし、どう愛するのか。そのことがいくつもの視点で、言葉を尽くして書かれた本書は、死と儀式がつきまとうわたしたちの人生において、欠かせない処方箋になるのだと思う。
(きしだ・なみ 作家)